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Archive for the ‘サイコパス’ Category

人を殺す「ならず者」と、殺さない「ならず者」

2010年10月30日 コメントは受け付けていません

 結婚詐欺・連続不審死事件において殺人罪などですでに今年2月に起訴されていた木嶋佳苗被告(35歳)が、別の殺人容疑で再逮捕されたことが今日付の一般紙(社会面)で大きく報じられている。木嶋の周辺には「練炭」を使った不審死が相次いでおり、ほかにも結婚詐欺による詐欺罪で起訴されている。同人の犯行動機は、セレブな生活を夢見た自己本位なもので、その目的のためには他人の死さえ厭わない感覚は、良心の呵責を明らかに欠いたものといえよう。
 犯罪心理学の専門家が診断すれば、同人は間違いなく「サイコパス」(=良心の呵責を欠いた異常人格者)として認定される。この種のサイコパスに特徴的なのは、自分の欲しいものを手に入れるためには、殺人さえも躊躇しないという点にある。さらにそれが発覚したあとも、自分のしたことを絶対に認めようとはせず、否認をつづけるというのも一貫した特徴である。ただ状況証拠から見る限り、「クロ」である事実は動かしようがない。ある意味では、さほど頭がよいサイコパスではないのも、この種のサイコパスに見られる特徴だ。
 例えば、以前、この欄で何度も取り上げてきたロス疑惑の張本人・三浦和義の言動などもそうした「軌跡」を見事に描いていた。“良心欠落者”は、殺人だけでなく、詐欺など多種類の犯罪行為を引き起こす。「ほしいものを好きなように捕る」という意味で、以上は“粗暴的なサイコパス”とも分類されている。
 一方、こうしたサイコパスよりもさらにずる賢いサイコパスも存在する。当然、人を殺せば捜査当局から捕まる可能性が生まれる。「危ない橋」はけっして渡らず、うまく立ち回る能力をもったサイコパスのことを指す。専門家は、そうした者たちを“ホワイトカラー・サイコパス”と位置づけることもある。それでいて冒頭のサイコパスと共通するのは、自分の欲しいものを手に入れることにかけては、常人の能力をはるかに超えた手腕を発揮する点だ。「欲しいもの」とは、金銭であることもあるし、あるいは自身の政治的立場であったりもする。
 東京・東村山市議で、同僚の死を“悪用”して、罪のない教団に殺人容疑をかぶせ、自分の政治的立場を守るために利用してきた「矢野穂積」などは、こうしたずる賢いサイコパスの典型であろう。粗暴的なサイコパスであれ、ずる賢いサイコパスであれ、共通する主な特徴はただ一つ、良心の呵責をもたない(=感じ取ることができない)という一点にある。
 普通の人なら、良心の呵責を感じて述べることができないような「ウソ」であったとしても、サイコパスは自分が「欲しいもの」を手に入れるためなら、平気で口にすることができる。さらにはマスコミに対しても、良心の呵責を感じることなく、常人なら驚くような「ウソ」であったとしても、平気でブリーフィングすることが可能になる。
 専門家の表現を借りれば、彼らにとってそれは、自分の周りはすべて「敵」として見えており、敵とのサバイバル・ゲームを楽しんでいるようなものだともいう。常人とは明らかに「感覚」が異なっているし、脳の一部の働きが未発達・あるいは正常に機能していない状態とも見られている。
 マスコミ人は、世の中にこうした“ならず者”たちが一定の比率で存在するという事実を認識しないと、後で手痛いしっぺ返しを食うことになりかねない。

カテゴリー:コラム, サイコパス

パラノイアとサイコパス

2010年8月15日 コメントは受け付けていません

 先月30日に弁論準備手続きが開かれた小生が当事者(被告)となっている裁判で、裁判所による和解仲介が行われたことはすでに報告した通りだ。当方にとって意外だったことは、原告の矢野穂積側が、和解を成立させるためには、訴状で問題個所と指摘している「重要容疑者」の5文字のほかに、コラム日記の中のほかの幾つかの語句についても削除せよと主張しているらしいことだった。それによると、原告・矢野側は「サイコパス」や「パラノイア」という表現が気に入らないのだという。
 「パラノイア」、つまり偏執病を意味する言葉だが、すでに司法で確定済みであることを当方側は裁判所に説明することになった。矢野穂積は、地元・東村山の市民らが配ったビラの中でかつてそのように指摘され、97年12月、自ら800万円の損害賠償と謝罪広告などを求めて東京地裁八王子支部に訴えた経緯がある。矢野自身、4期日にわたって本人尋問を行うなどしたこの裁判は、訴えから6年もかかって一審判決が出た。04年3月17日の地裁判決では、矢野らの請求はいずれも棄却され、「パラノイア」については、「当該論評の前提たる事実もまた相応の根拠がある」と判決文で指摘された。要するに、パラノイアと言われても仕方のない前提事実が存在するため、裁判所は違法性はないと判断したわけだ。
 日本に何万人といるはずの公職者の中で、司法から「パラノイア」と認容された人物は、おそらく矢野穂積が“唯一”であろう。一審で敗訴した矢野らは東京高裁に控訴したものの翌年9月、控訴を取り下げ、一審判決が確定している。
  一方で、「サイコパス」は、「パラノイア」とは全く異なる概念だ。一般には(1)良心の呵責を持たない特異人格(2)他人を操作して生きる傾向(3)男女関係にも顕著な特徴があらわれるなどの主要な共通点をもつ。
 今後、矢野が「サイコパス」の語が名誉棄損にあたると訴えてくるとしたら、当方は大まかに上記の3点について、矢野穂積という人物の行動がこれらの項目にいかに合致するかを具体的に立証すればよい。その上で、当方の主張する前提事実が「真実」として認められれば、裁判所は再び「サイコパス」の語句についても、「当該論評の前提たる事実もまた相応の根拠がある」と司法認定する関係にあることは言うまでもない。

サイコパスの行動

2010年2月25日 コメントは受け付けていません

 東京・豊島区に住んでいた連続練炭殺人の容疑者が殺人容疑でようやく逮捕された。詐欺容疑で最初に逮捕されたのが昨年9月だったから、半年近くかかったことになる。サイコパス(=良心の呵責をもたない異常人格者)が自分の罪を認めようとしないのは広く共通した特徴であるため、本人がいまだ否認しているのはむしろ当たり前のことだ。
 サイコパスは自分の罪や責任を逃れるために平気でウソをつく人間であるため、結果的に多くの点で齟齬をきたす。それでもなんのためらいもなく平然とウソをつける特技のためか、一般人の多くはその態度・振舞いにだまされることも多い。詐欺師にサイコパスが多いのはそうした理由からであろう。
 そうした特質面から、状況証拠は完全にクロであるにもかかわらず、本人だけが「否認」を続けるという現象が、サイコパスをめぐっては起こりがちだ。上記の練炭殺人鬼(=容疑者)も同様である。
 だが、サイコパスが常に殺人を犯すとも限らない。サイコパスの共通項はあくまで≪良心の呵責をもたない≫という特質にあり、人を殺すかどうかは、あくまで結果論にすぎないからだ。サイコパスの殺人の動機は、自己本位な自分の利益と結び付いていることが圧倒的に多いのも共通した特徴である。
 東村山市議の矢野穂積が、良心の呵責を欠落させている、典型的なサイコパスの類型に入る人物であることはすでに明らかだ。サイコパスが公職者(市議)になるとどうなるか、その“生きた実例”を彼は一貫して示し続けてくれているといってよい。自分の立場を守るために多くの議会人を攻撃する。それは議会場で繰り広げられるだけでなく、ビラを使って、市内各地に巧妙にプロパガンダを行ってきた。
 さらに「訴訟」を連発して、あたりかまわず威嚇し、批判をしにくくする。相手は応訴負担を余儀なくされるため、批判の力が弱まる傾向が出てくる。そうなれば、同人にとってはしめたものである。
 たとえ、市民としての正当な権利である「請願」であっても、自分の利益に反するものであれば、平然と民事訴訟で訴え、逆に市民を「法廷」に引きずり出す。そんなことは、同人にとっては“朝飯前”の行為だ。
 95年の朝木明代市議転落死事件も、上記のような性質をもつ公職者によって、格好のネタとして使われた。自分の立場を守るために、驚くほど平然とウソを主張しつづけてきたこの男の軌跡は、「サイコパスが市議会議員になったとき」どうなるかという『見本』を、 後世のために示してくれている。

カテゴリー:コラム, サイコパス

人殺しにも痛痒を感じないサイコパス

2009年11月6日 コメントは受け付けていません

 練炭殺人鬼のオンナの本名を活字にしたのは、私の知る限り、ネット媒体では「紙の爆弾」(電子版)、紙媒体では「週刊新潮」が最初である。新聞報道が依然匿名扱いを貫いているのと対照的に、女性誌を含む週刊誌は多くが「木嶋佳苗」という実名を出し、写真もいろいろと過去のものを発掘し、掲載し始めている。
 写真では「美人」にはとうてい見えないものの、「女性セブン」(11月19日号)が掲載した名門料理学校の修了証をもらっているときの写真は興味深い。昔でいうところの“肝っ玉かあさん”といった風貌で、ふくよかさのみが目立っている。この女性が殺人罪で立件されることはほぼ間違いなかろうが、テレビ報道などでは、裁判員制度の仕組みのなかで自供が得られないままの立証には困難が伴う、などのコメントも続いている。
 サイコパスは自分から罪を認めることはけっしてないとされるので、同女も最後まで否認をつづける可能性が高い。最近の社会面は、こんなサイコパスの犯罪で占められているかのようだ。
 今度は鳥取県で、同じ30代オンナの周辺での不審死が相次いでいることを報じるニュースが大きく取り上げられているほか、整形して逃亡している殺人犯の男もいる。
 上記の2人の女性による殺人疑惑は、警察捜査がきちんとしていれば被害を最小限に食い止められたはずの犯罪にも見え、世の中に一定の割合で「良心の呵責」を欠落させた特異人格が存在することを前提にすれば、さまざまな対処法が考えられるべきではなかったかとも思われる。
 もちろんサイコパスには、「犯罪」として表面化することはないものの、グレー・ゾーンすれすれで、似たような行為を繰り返す者も大勢いる。結論は、自己本位であるということだ。
 サイコパスと診断するには、カナダの犯罪心理学の大家が発明した20項目のサイコパス・チェックリストを使い、専門家が実施する。FBIや欧米の矯正施設でもふつうに使われているツールであり、先進国で使っていないのは、日本くらいかもしれない。
 サイコパス研究者などの取材を通じて小生がこの人物はサイコパスであることはほぼ間違いないと当サイトで指摘してきた人物には、ロス疑惑の三浦和義、元弁護士の山崎正友、東村山市議の矢野穂積、信平狂言事件の信平醇浩、酒井法子をしゃぶ漬けにした配偶者の高相祐一、さらに上記の木嶋佳苗などがいる。

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久しぶりに現われた大型サイコパス

2009年11月1日 コメントは受け付けていません

 埼玉県警によって9月に逮捕された豊島区在住の34歳の女の話題が連日、新聞テレビをにぎわせている。10月27日の読売スクープで始まったものだが、この女がサイコパスであることはほとんど間違いない。(1)定職をもっていなかったこと(=寄生的生活)に加え、(2)結婚話などに結び付けて1億円近い金を騙し取っていた事実(実際の被害額は未判明分を含めるともっと増えると思われる)、さらには犯行が発覚しないように(3)練炭と睡眠薬を使って殺害したと思われる事実は、サイコパスの自己中心的な行動と見事に一致する。
 私は以前、サイコパスの世界的権威ロバート・ヘア博士にインタビューした際、女性のサイコパスは男性のように肉体的に強くないので、薬を使う方向になりやすいと聞かされたことがある。さらに連続殺人犯はほとんどがサイコパス、との博士の言葉も思い出す。
 普通の犯罪は、あるときかっとなって刺したなどというもので、犯行後は良心の呵責にさいなまれる。これは一般の人間の犯罪だ。ところがサイコパスは全く違う。良心の呵責がないので、犯行後も平然と精神状態を乱すことなく生きていられる。セレブな生活を満喫していたこの女に、良心の呵責がなかったことは明らかだ。
 犯行先を結婚願望をもつ男性に絞っていたのも賢いやり方だ。サイコパスはこうした騙しやすい人間を選別する嗅覚にたけているとされる。この手口を知って、私はあまり一般に有名ではないが、北海道函館市に住んでいた信平醇浩(じゅんこう)という人物を思い出した。地元では「詐欺師の典型」として知られていたが、一人暮らしのお年寄りをターゲットにし、口先だけのうまい話と暴力で、同じく1億円近い金を巻き上げていた。
 豊島区の女は、久しぶりに新聞をにぎわせている「大型サイコパス」といえよう。それでも知能という点では、昨年ロスで死亡した男性版の大型サイコパス・三浦和義には劣るようだ。三浦は、犯行を隠すために、日本の捜査権の及ばない米国で、都合の悪い人間を殺そうとした。しかも自分の手を汚さずにそれを行おうとしたために、最後まで、殺人罪(既遂)の刑罰から逃れることのできた「超一級」の知能犯サイコパスだった。
 その点では、今回の女は、まだ稚拙に見える。練炭殺人も1人や2人ならうまく逃げおおすことはできても、さらに被害者が増えると、発覚するのは時間の問題と思えたからだ。その意味で、先を見通す能力では三浦に劣るものの、それでも近年には珍しい大がかりな犯行に手を染めた女性サイコパスの典型といえよう。
 今回の特徴は、現代的犯罪の特徴ともいえる「インターネット」「介護」というキーワードがまじっていることだ。介護分野に接点のある人ならだれしも感じることだが、訪問ヘルパーという職業は、このような犯罪意思をもつ人間にとっては、獲物を物色し、実行するにはうってつけの環境下にある。
 犯罪予防の観点から、上記のような人間(サイコパス)が社会に一定の割合で存在することを伝え、注意を呼びかけることは、本来なら、法務・警察の重要な役目であろう。この分野で日本は非常に遅れている。

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サイコパスに“捕食”された女性芸能人の哀れ

2009年10月27日 コメントは受け付けていません

 酒井法子被告が昨日の初公判で、「悪いのはわたしです」と述べて法廷で謝罪したことなどが報じられている。これらの言動は、サイコパス(良心の呵責をもたない異常人格者)に騙された女性の典型的パターンを示しているように思えてならない。夫の高相被告がいなかったら、覚せい剤を使用することもなく、このように人生を棒に振ることもなかったはずの酒井被告は、あくまで自分は被害者でなく、加害者であると思い込んでいる。
 たびたび当サイトでもふれてきたが、高相被告をサイコパス・チェックリストで診断すれば、ほぼ間違いなくサイコパスの範疇に入ると思われる。自分で稼がず、妻の収入に“寄生”していた事実、ふしだらな男女関係、結婚当初から覚せい剤を使用し、結果を省みずに有名芸能人の妻にそれを勧めた事実、さらに妻を薬漬けにしたあと薬を渡すことで金づるにしていたと思われる事実など、妻を“操作”することで自分の利益に転じる行動は、サイコパスの言動様式そのものに映るからだ。
 酒井被告は、将来は、介護や福祉の勉強をして、そうした仕事をしたいと昨日の法廷で述べたとも報じられている。これなども、サイコパスに騙される女性の典型そのものといえよう。サイコパスは相手の同情心などを巧みに見抜く能力をもち、そこに付け込んで悪事を働くことが多い。例えば、山崎正友という元弁護士のサイコパスが2000万円以上の大金を巻き上げた相手の女性も、その前職をたどれば元看護婦だった。人のために尽くす職業のタイプが、サイコパスによる被害者になりやすいことは明らかだ。
 酒井被告はサイコパスに“捕食”された立場にもかかわらず、いまだそうした構図が自分ではまったく見えないままのようだ。世の中にはそのような異常人格の一群が少数ながら存在し、「善意」の人間にとりついて不幸に落とし入れるという≪万国共通の方程式≫がある。余計なお世話だが、即刻離婚したほうがよい。

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自己利益のために人を操作する――「高相祐一」と「矢野穂積」の共通点

2009年9月19日 コメントは受け付けていません

 一昨日保釈された酒井法子被告の夫を、サイコパス・チェックリストで診断するとかなりの高得点をとるだろうとここで書いたのは8月のこと。その後さらに判明した事実は、それらの主張を裏付けるものばかりだった。
 ひとつは、高相被告が自らの収入源をほとんど持たず、酒井被告に生活支援を頼るヒモのような生活を送っていたことだ。サイコパス・チェックリストの20の診断項目の中には、「寄生的な行動様式」というものもあり、いわゆる“寄生虫的生活”のことを意味する。
 雑誌報道などでは、二人の夫婦関係が愛情面ではすでに薄れており、薬(シャブ)を媒介とする関係でしかなったと指摘するものもある。酒井被告が薬漬けとなり、その薬を調達してくれるのが夫の高相であったために、そうした関係で夫婦の絆をかろうじて保っていたというものだ。
 こうした行動をサイコパス研究の観点で見ると、夫は、薬を使って妻を支配し、仕事もせずに私的利益を得ていたということになる。そのカネで風俗ざんまいの生活だったのだから、被害者は酒井であり、加害者は高相という基本構図が見てとれる。高相の行動は、サイコパス的行動特性としては典型的なものにさえ映る。
 サイコパスは相手の「弱み」に付け込んで、自分の利益を貪る生き物にほかならない。加えて、相手が被害者であるのに、逆に自分が加害者であるかのように相手に思わせることも不思議なほどに得意なのだ。
 酒井被告が夫のことを恨むふうもなく、自分が弱かったからこうなった旨を述べたのは、第三者から見ると、多少の違和感を感じざるをえなかった。最初に子どもができた過程も、夫側の計算ずくであった可能性は否定できないと私などは思っているからだ。ともあれ、高相のような人格特性のタイプは、100人に数人の割合で存在することが知られている類型なのである。
 東村山のサイコパスこと「矢野穂積」も似たような人格面でつとに知られている。サイコパスは人の弱みをつかむ能力にすぐれ、そこを突いて相手を操作するための「道具」として利用する。最近も、低劣な右翼たちを使って、彼らをいいように操作してきたことは明らかだ。
 裁判で困り果てたある右翼は、矢野に頼り、書面づくりでも支援を受けていた様子が指摘されている。右翼たちは、自分たちがいいように利用されてきただけの存在であることをいまも自覚できないでいるようだ。
 矢野は95年に転落死した東村山市議・朝木明代に対しても、彼女を「操作」する立場にいた。矢野と朝木の関係は知る人ぞ知る関係だが、さまざまな弱みを握り、朝木は矢野に対してまったく逆らえない関係にあった。そうした“異常な支配関係”が、95年の転落死事件につながったと見る関係者は少なからずいる。
 酒井法子が高相祐一に出会わなければ今のようなことになっていなかったのと同じく、朝木明代は矢野穂積と出会わなければ、結果的に命を失うこともなかったはずだ。サイコパス的人物と出会って人生を滅茶苦茶にされたという点では共通するものの、酒井は命があって更生の余地がある分だけ、まだマシなのである。