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「記者の基本」なるもの

2010年12月13日

 「週刊新潮」に変見自在という長期連載のコラムがある。元産経新聞記者のコラムニストが執筆しているものだが、いま出ている12月16日号は「船橋洋一論」。いわずとしれた現在の朝日新聞の主筆だが、このコラムは、「朝日新聞が潰れるとしたら、その責任の一部はいま主筆をやっている船橋洋一にあると思う」とのしんらつな書き出しで始まる。右派側からの“さや当て”の類の文章かと思いきや、読み進めるとそうでもない。
 要するに執筆者は、船橋氏が情報の裏づけをとるという「記者の基本が」「なっていない」と断言し、複数の証拠を提示している。執筆者によれば、船橋氏は極端な中国寄りのジャーナリストであり、中国人(コラムでは「支那人」と記述)と白人の言うことなら、裏づけもとらず真実だと思い込むという“病弊”なるものを指摘する。私は内容の真偽にここでこだわりたいわけではないが、こうした指摘は、反学会ジャーナリストと呼ばれる人々にも共通の「図式」としてそのまま当てはまる。
 たとえば、典型的な乙骨某を例に挙げよう。教団批判をする者の言葉であれば簡単に「真実だと思い込んで」しまう点はまったく同じだ。冒頭の筆者は「船橋にはこんな不始末が山とあって、すべてとぼけ通してきた」と書いているが、乙骨も同様に、東村山デマ事件、信平狂言事件、その他細かいものでは数えきれないほどの「不始末」の山を築いてきた。だが、同人は、それらの結果責任を「すべてとぼけ通してきた」ことも同じだ。
 要するに、右とか左とか、反学会とか、そんな立場には何の関係もなく、「記者の基本とはウラを取ること」「そして常により真実に近づく姿勢を保つ」とする部分における筆者の指摘は、極めて正当である。
 東村山デマ事件において、控えめに表現すれば“バイアスのかかった情報”を裏づけをとることもなく正当化してきたジャーナリストらは、その「不始末」を反省することなく、いまも「とぼけ通して」生きている。

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