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堕ちた元委員長  81  信仰面で苦労しなかったツケ

2010年11月11日

 矢野絢也が公明党の気高い立党理念を背負いながらも、国会の場でその使命を最後まで発揮することもなく、自民党の金権腐敗政治に流され、公務よりも一家の資産形成に夢中になるような“政治屋”に成りさがった「要因」はどこにあったか。ひとえにそれは、同人の出馬前の信仰人時代にあったとする意見は多い。
 もともと創価学会の土壌から議員を出すようになった大きな背景には、権力の魔性に流されない政治家は、この仏法を根本に変革された人間以外にありえないとの根強い考え方があった。そうした発想や教団の国会進出の経緯は『人間革命10巻』に詳しいが、矢野の場合はその前提となっていた信仰面にはなはだ未熟なものがあったということになる。
 教団が初めて国政選挙に打って出たのは1956(昭和31)年。このとき東京と大阪の2つの選挙区に加え、全国比例区に4人、計6人の候補者を擁立した。当選できたのは、大阪地方区と比例区2人の計3人だったが、このときの「大阪の戦い」が、国政選挙で初めて勝利した戦いとして、なかば伝説化されてきた。大阪の指揮をとったのは、若き日の池田名誉会長である。矢野は京大を1年間就職浪人した後のこの年の4月、大林組に入社した。
 「大阪の戦い」はすでに前年から始まっており、56年にはそれが本格化した。矢野が入社した4月は、その活動がピークに達していたころで、大阪の学会員が“爆発的な動き”を見せていた時期に当たる。7月に投票が行われ、大阪地方区の初陣は、勝利で終わった。
 その直後、大阪支部は「船場」「梅田」「松島」の3支部を加えた4支部に発展。このとき、「松島」支部の男子青年部の責任者(部隊長、現在の部長に当たる)に抜擢されたのが、矢野であった。ただし、仕事が忙しいという理由で、青年部の会合に出席できないことも多く、周りの幹部に支えられての役職遂行というのが実情だったようである。矢野の信仰面の先輩にあたる人がしみじみと述懐するのを聞いたことがある。
 「(矢野君は)関西の中枢の戦いはやっておりません」
 さらにこうも付け加えた。
 「関西からああいう人間を出して本当に申し訳ない」「(彼は)大阪を捨てていった人間です」
 矢野の変節についての内面的動機については、次のように強調した。
 「男子部としての活動をいくぶんかやったけれども、下積みのね、草の根の男子部活動というのはあまりやっていません。(そのことは)はっきり言えます」
 たいした苦労もなく赤じゅうたんを踏んだ矢野絢也。“妙法の政治家”に寄せられた当初の期待はことごとく打ち破られ、いまは醜いむくろを晒(さら)している。

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