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Archive for 2010年11月

堕ちた元委員長  87  はかない信仰観

2010年11月30日 コメントは受け付けていません

 金銭スキャンダルで党委員長職を投げ出した元政治家・矢野絢也の出した著作に次のようなくだりが登場する。同人の信仰に対する態度が鮮明に表れていると思うのでそのまま引用する。
 「私、無茶なこと言いますが、池田さんを教祖あるいは生き仏に祀り上げて、つまり名実ともに、なんで池田教にしておかなかったのかと思いますね。別に大石寺とか本山とかを引きずらなくても、自分で本尊を作ったらいいんですよ。自分が教祖だと宣言したらよいのです。ほかの宗教ではみんなやっていますね」
 繰り返すが、ここで矢野は「自分で本尊を作ったらいいんですよ」とはっきり述べている。学会はもともと日蓮を始祖とする教団の信徒団体であって、その教義は日蓮仏法である。本尊も歴代法主の書写したものを拝んできた。それを勝手に自分でつくればいいというのだから、世間的な新興宗教の「毒」に完全に染まった人間の言葉としか思えない。矢野にとっての宗教とは、やはり“金儲けの道具”としか映らないようだ。
 同人はよく自分の母親は信仰心があったなどと述懐することもある。その言葉は反面、自分には信仰心が乏しいということを「自白」しているようなものだ。上記にもそうした現状の結果としか思えない言葉といってよい。
 余談になるが、矢野絢也は今月、公明党議員の慣例を無視して、勲章を受章した。そのために尽力したのは、仙谷由人官房長官だったことがすでに報道されている。矢野の著作では、その“恩ある”はずの官房長官の名前が「仙石」と誤記されている。些末なことかもしれないが、出版界の常識としてはありえない話である。

カテゴリー:コラム, 矢野絢也

デマ主張は北朝鮮なみの矢野穂積

2010年11月29日 コメントは受け付けていません

 裁判で負けても、あべこべに勝ったように機関紙に掲載し、これまで“宣伝”を重ねてきた東村山市議の矢野穂積。この人物の主張は「虚偽」まみれに尽きるといってよい。矢野の行動様式を知る人から見れば、同人の姿は、北朝鮮のそれとまったくの“瓜二つ”に映るだろう。自分の非を認めることは絶対になく、すべてを相手のせいにしてしまう。プロパガンダの典型ともいえようが、昨今の北朝鮮の行動およびそれに対する理由づけも、まさにそのようなものだ。矢野は自分の立場を守るためなら、どのような虚偽主張もいとわない。同僚の不幸な死でさえも、自分に都合のいいように事実をねじ曲げ、自らの議席維持のために“活用”して平然と生きてきた。古今東西、この種の「ペテン師」は、どの世界にも見受けられるものの、同人の場合、選挙でえらばれた「公職者」というところに一つの特徴がある。矢野穂積はまぎれもなく、日本における典型的な「ペテン師」のひとりであり、元弁護士ですでに死亡している“希代のペテン師”山崎正友に負けずとも劣らない、虚飾まみれの人物である。2人に共通するのは、「良心の呵責」と呼べるものが存在しないという、驚くべき事実である。

カテゴリー:コラム, 矢野穂積

「週刊文春」の連載は“お粗末”の極み

2010年11月27日 コメントは受け付けていません

 いちいちこのような代物を“逆宣伝”する必要もないのだろうが、同じ業界の末席を汚す者としては、業界劣化の最たるものに映るのでいちおう触れておきたい。「週刊文春」が現在発売号で、池田名誉会長に関する連載を始めた件である。「徹底取材」「その実像に改めて迫る」と見出しは仰々しいものの、その内容はお粗末の一言に尽きる。短的にいえば、執筆者は最低限必要な資料すら読みこめていないし、取材の方向性もあいまいで、全体像をおよそ十分に把握できていない結果か、「実像」に「迫る」どころか、逆に「かけ離れている」ようにしか見えない。例えば、池田名誉会長が第三代会長に就任するいきさつについて、大蔵商事時代に借金のとりたてがうまかったからといった愚にもつかない理由が書いてあるだけで、会長就任の動機をはなから「野望」と決めつける。だれが好き好んで、首相以上の激務にも見える教団の会長職に就くだろうか。この記事に書かれているのは、執筆者の「推測」と、恣意的な材料集めばかりで、特段目を引く内容は見当たらない。
 要するに、必要十分な取材を行っていない。そのため、取材で得た「事実」を中心に主要部分を構成するのではなく、逆に≪取材の不備≫を筆者の浅はかな推測と予断で恣意的に埋めあわせているにすぎない、お粗末な代物なのである。「週刊文春」も落ちたものだと、しみじみと実感させてくれる文章である。

カテゴリー:コラム, 文藝春秋

堕ちた元委員長  86  矢野絢也のウソをあばいた音声記録

2010年11月26日 コメントは受け付けていません

 「週刊現代」の記事をめぐる過去の矢野絢也の裁判で、公明党議員OB3人が矢野宅を訪問した際、どのような話し合いがなされたかは双方で対立する最大の争点となった。OB側は矢野の了承のもとに過去の議員手帳などを預かり保管したと主張したのに対し、矢野は意に反して持ち出されたと主張したからである。OB側が矢野宅でのやりとりを録音した「音声データ」を法廷に提出したのは、矢野の主張がウソであることを証明するための弾劾証拠としてであった。なぜならそこには、矢野の主張するように「意に反して」どころか、矢野自身がOBに手帳を預けることを認める数々の発言を行っていたからだ。例えば次のような言葉であろう。
 「ただきっかけがないもんでね、わしは。あなた方のおかげで救われた」「くれぐれも皆さんの方からではなく、私から自発でお預けした」「私も男ですから、約束した以上はそうしますしね」
 さらに矢野は、この証拠が法廷に出てくる以前、書面で次のように主張していた。
 「自分で(手帳を)燃やすなどと言ったことはありませんし、言うはずもありません」「『これからもしばしば来てほしい』と言うわけがありません」「彼らの態度に危険を感じてやむを得ず渡したもの」
 ところが肝心の音声データには、矢野自身による次の声が記録されていたのである。
 「あなたたちが立ち会ってね、燃やせばいいんです」「何遍来ていただいても結構でございますから、ほんと」「私の意思でお預けした」「どうもお三方、ありがとうございました」
 弾劾証拠としては、十分すぎる内容とも思えるが、東京高裁は一転、この音声記録の信用性に難クセをつけ、科学的検証も踏まえず、逆の判断を下すことになった。現在、この音声記録について別裁判で争われているが、ただ一つはっきり言えることは、上記に示された矢野絢也の発言は、まぎれもなく矢野自身が発した言葉であるという歴然とした「事実」である。なぜなら同人の声を「作る」ことなど、技術的に不可能だからだ。
 要するに矢野は、肝心かなめの部分で、平気で「虚偽」を主張していたことを示している。

カテゴリー:コラム, 矢野絢也

故朝木明代が抱いた“過重”なストレス

2010年11月25日 コメントは受け付けていません

 歴史にイフはないとよくいうものの、95年の東村山市議会選挙で、仮に矢野穂積が「当選」していたらどうなったかを考えることは、極めて興味深い事実である。矢野が当選していれば、トップ当選の朝木明代、4位当選の朝木直子(初当選)に加え、矢野も初当選をはたし、草の根市民クラブは一挙に3人の議席を得ていたことになる。当然ながら「議席譲渡」という違法な手段を使って、議席のタライ回しをする必要もなかったわけである。さらに当然ながら、「議席譲渡」の無効を訴える市民グループと、必要以上の対立を起こすこともなかった。その意味では、朝木明代の「胸中」もまったく変わったものとなっていたはずである。
 朝木明代は初当選以来、矢野穂積のアドバイスを受けながら政治活動をつづけてきた。その意味で明代と矢野は、長年にわたる“二人三脚”の関係にあった。そこにふってわいたのが、娘の直子による矢野への「議席譲渡」事件である。譲渡行為の背景には、直子と矢野のただならぬ関係がすでに見え隠れしていたとも思われ、母親がそのことに何の関心も示さなかったとは考えにくい。
 結果的に、朝木明代の「胸中」に“過重なストレス”がかかっていたことは間違いない。そんな矢先におきたのが明代によって引き起こされた6月19日の万引き事件だった。洋品店で安価なTシャツを店に黙って持っていこうとしたところを見つかった事件だが、明代が金がなかったからこうした行為に及んだとは到底考えられない。過度なストレスが、明代をこのような行動に駆り立てたことはいまとなっては明白であろう。
 この事件は警察によって捜査され、明代と矢野は、大胆なアリバイ工作を始める。だがその工作は見事に失敗に終わり、逆にさらなる「墓穴」を掘り進めることになった。そうして9月5日に、明代と矢野の2人は東京地検に出頭することを求められたため、2人は9月1日午後、検察官出身の弁護士のもとに相談に訪れていた。明代の転落死は、ちょうどその日の夜に突如として発生する。
 事件を全体的に見る限り、矢野穂積が選挙できちんと当選していれば、(1)議席譲渡も、(2)市民との過度な対立も、(3)万引き事件も、(4)アリバイ工作も、(5)検察庁への出頭要請も、いずれもなかった可能性が高い。その結果、朝木明代は、転落死事件を起こす必然性はさらさらなかったということになる。
 結論をいえば、矢野穂積がきちんと当選していれば、朝木明代は死ぬ必要はなかった。その意味で、朝木明代が転落死するもともとの原因は、矢野の「力のなさ」、あるいは「人気のなさ」が招いたといえる。

カテゴリー:コラム, 矢野穂積

堕ちた元委員長  85  陰で竹入批判を繰り返した矢野絢也

2010年11月24日 コメントは受け付けていません

 公明党国会議員OBの3人が、新宿区にある矢野絢也所有の「豪邸」を訪れたのは2005年5月。矢野が議員引退した93年から数えて12年が過ぎていた。このとき矢野は、同僚議員であった3人にこう述べた。
 「僕は本当にこのお、一昨日来てくださったこと、本当にうれしかった」
 「私も男ですから、約束した以上はそうしますしね」
 「本当に10数年間、ご迷惑かけて、本当に申し訳なかったと」
 「きっかけがないもんでね、わしは。あなた方のおかげで救われた」
 いずれも5月17日夜の時点における矢野本人の発言である。一方、それに先立つ5月15日には、3人に対して次のように語っていた。
 「僕はあのう、竹入(義勝)と違うよ。お寺行ったりするつもりもない」
 「竹入とは、まあ20年間一緒にやった仲だし、よく喧嘩もしました」
 「竹入さんの行動、はっきり言って、女の始末まで私してたわけですよ」
 さらにこのとき、矢野は3人に次のような言葉も発していた。
 「この10年間は、皆さんと疎遠になって、僕も寂しかったし、皆さんにもご迷惑かけてと、お詫びもしたいと」
 あくまで、議員引退後の10数年間、同僚議員と没交渉になり、政治評論家として好き勝手に生きてきた自身の行動を懺悔し、謝罪する姿勢を鮮明にしていた。だがその後、矢野の態度は“一変”する。日蓮正宗関係者らに説得され、反逆の意志を明確にしていったからだ。矢野は最近の著作で、次のように「宣言」している。
 「売られたケンカはきっちりと買わせていただくつもりです」
 「これは、僕の老後の生きがいみたいなことになってしまっていましてね」
 「いろいろ手伝ってくれる人がいるものですから、やっているわけです」
 陰では竹入義勝の過去の言動を引いて批判。相対的に自分の立場を持ち上げようとしていたが、いまでは裁判の結果に勢いづいたのが、強気の姿勢を崩していない。だがまだ一連の裁判はけっして終わったわけではない。重要な争点部分での争いは依然として継続中であり、予断を許さない状況が続いているからだ。

カテゴリー:コラム, 矢野絢也

自分の“不始末”を罪なき教団になすりつけたペテン師「矢野穂積」

2010年11月22日 コメントは受け付けていません

 この事実は何度強調してもとうてい十分なものとはいえないだろう。少なくとも、矢野穂積が東京・東村山市議会に議席をもっている限りは。
 矢野穂積の行動を追っていけば、同人が本当に市政をよくしようなどという気持ちで市議会議員となっているわけでないことに多くの人間が気づくはずだ。同人のもっとも親しい道徳的信念は、「目的のためには手段は選ばない」というものに見え、その「手段」のなかで大きなウエイトを占めているのが「虚偽」であり、さらにはそのための「宣伝活動」といえる。
 矢野は一言でいえば、「虚偽宣伝」がことのほか得意な人物であり、その意味で矢野の政治手法は “ナチス流”といわれるのだ。民事裁判で負けても、逆に勝ったように見せかけて宣伝するのは得意中の得意な芸当であり、実際は加害者でありながらもまるで被害者であるかのように“演出”し、市民の同情を買おうとする姿勢もまた顕著である。同僚女性市議の不幸な転落死を、いいように弄び、自分たちの利益のために用いた事実も、まさにその典型例といえよう。
 そうしたイカサマともいえる政治姿勢がいったいどこから生まれるかといえば、結局、それは矢野穂積自身の「特異な人格」に求められる。
 矢野は95年の東村山市議転落死事件の当時、世間がオウム真理教事件で揺れていることをいいことに、同僚市議であった朝木明代の死亡を、罪のない教団になすりつけることで回避しようと試み、事実を識別できないお粗末なジャーナリストらを使って、工作を図った。当初はそうした意図は成功したかに見えたが、確かな証拠は何一つなく、むしろ状況はそれとは正反対の様相を呈していった。その後の多くの民事裁判でも、矢野らの主張してきた内容は、真実性を一切認められず、同人のペテン師ぶりはますます明白になっている。
 つまるところ、矢野は自分の“不始末”を罪なき教団になすりつけた「ペテン師」にほかならない。それでも市議会議員の「公職」にとどまりつづけることができているのは、ひとえに、クロをシロと言いくるめることのできる同人特有の“卓越した能力”のおかげであり、世間ではそうした力を“詐欺師的能力”と呼んでいる。
 「ペテン師」の5選がかかった東村山市議会議員選挙まで、あと5カ月に迫ってきた。

カテゴリー:コラム, 矢野穂積