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「議席譲渡」がなければ、明代の「転落死」はなかった

2010年10月31日

 1995年4月の統一地方選挙で行われた東京・東村山市の市議会議員選挙がそもそもの発端である。創価学会という教団が、いわれなき罪をかぶせられ、現在もなお“報道被害”を受け続ける要因となっている「東村山デマ事件」の起きる端緒となった選挙だったからだ。草の根市民クラブは、現職1人と新人2人の計3人の候補者を擁立し、現職の朝木明代はトップ当選、娘の朝木直子は4位当選、新人の矢野穂積のみが落選した。このとき議席を意図的に返上したのが、朝木直子である。矢野がたまたま「次点」での落選だったことを利用し、自ら議席返上することで、矢野を“繰り上げ当選”させた。これには地元市民から怒りの抗議がなされ、民事訴訟に発展。97年8月、「議席譲渡は無効」との最高裁の判断が出て、矢野穂積は失職した。つまり、この時点で、「草の根」の議席は以下のように、いったんはゼロになったのである。
 ●朝木明代  95年9月1日にビルから転落し、翌朝死亡
 ●朝木直子  意図的な住民票移動で議席を矢野に譲る(当選返上)
 ●矢野穂積  議席を譲渡されるも、97年8月の最高裁判決で「失職」
 ところが、草の根は99年の選挙でゾンビのように再び息を吹き返す。朝木直子は母親の指定席だったトップ当選をはたし、選挙に弱い矢野穂積でさえ、過去最高得票の2159票で5位の“上位当選”を果たした。その背景には、朝木明代の不幸な転落死を、いいように捻じ曲げた「プロパガンダ工作」の成功を物語っていた。
 そもそも95年の選挙で、初当選を果たした朝木直子が矢野穂積に議席を譲った背景には何があったのか。この年、矢野穂積と直子は仲良く手をつないで歩く姿が複数の人間によって目撃されており、2人の“親密な関係”が背景にあったことは否定できない。おそらくこの議席譲渡のいきさつのなかで、母親である朝木明代は、2人の関係にただならぬものを感じた可能性は否定できない。
 ただでさえ、議席譲渡の一件で草の根は市民の「包囲網」のなかで孤立しがちな状況にあったなか、明代のストレスは相当なものだったにちがいない。そうしたストレスがこうじたのか、明代は6月に入って市内の洋品店で「万引き行為」を発見される。警察で3度の事情聴取を受け、言い逃れを続けたが、アリバイ工作は見破られ、検察庁に書類送検されることなった。
 もしも「議席譲渡」事件がなかったならば、私は、明代は万引き事件に手を染めることはなかったのではないかと推察する。さらに「万引き事件」がなければ、当然ながら「アリバイ工作」を行う必要もなく、必然的に立件されることもなかったので、結局は「転落死」する必要もなかったという流れになる。風が吹けば桶屋がもうかる式の話ではあるが、この推測はかなり蓋然性は高いのではないか。
 つまり、朝木明代を「転落死」に追い込んだそもそもの要因は、「議席譲渡」にあった。だからこそ、最も強い結果責任を持つはずの朝木直子と矢野穂積の2人は、明代の転落死直後から、「暗殺説」「謀殺説」を異様なほどに唱え始め、罪のない教団に殺人容疑を被せてまで、自己責任の回避に躍起になったということができる。実際、朝木直子は警察の事情聴取の要請に最後まで応じることもなく、極めて矛盾した行動をとり続けた。
 「不幸な死」を、生き残った2人の人物によっていいように弄ばされてきた亡朝木明代市議の人生――もしも本人が生きていて、この状況を知ったら、何と答えただろうか。

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