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堕ちた元委員長  69  どこまでも「自分のため」に生きる

2010年10月13日

 公明党の立党理念が、1962(昭和37)年9月に示された「大衆とともに語り、大衆のために戦い、大衆の中に死んでいく」にあることはいうまでもない。ところが元委員長の矢野絢也の場合、政治的立場を利用して、個人の資産形成に努めるなど、どこまでも「自分のため」との姿勢が突出していた。72年の三重県賢島の別荘、73年の東大阪市の豪邸、74年の奈良県の山林――。それらの不動産が、いま住む新宿区のエレベーターつき3階建ての「豪邸」に化けているのだから、支持者や国民のためより「以前」に、皮肉にも自己本位な元政治家としての姿を、いまも目に見える形で残していることになる。
 同人のそうしたエピソードの中で特徴的なもののひとつは、党委員長に就任して半年後になされた次の行為であろう。1987年5月27日、通常国会の最終日――。この国会で最大の焦点となっていたのは売上税関連法案だったが、多忙を極める政党トップが、「昼過ぎ」に、自宅にとんぼ返りしていた。目的は、自宅の小部屋で、明電工専務に仕手株購入のための資金「2億円」を直接手渡すためだった。
 矢野はこの事実について、当初はマスコミ記者に対し、「覚えがない」「絶対ありません」などと真っ向から否定していたがが、ウソをつき通せないとみるや、「2億円授受はあるが元秘書の仲介をしただけ」と、供述内容を180度変遷させた。自宅での大金授受のために、とんぼ返りした「事実」を認めたのである。さらに「シラは切れるだけ切れ」との同人の政治信条に従ってか、金銭授受の事実を認めたうえで、今度は秘書のせいにするという“新たな虚偽”を構えたのである。
 「公人」たる人物が、わざわざ自分の公務の時間をさしおいて、秘書の金儲けのために時間を使うなどということがありえるだろうか。だれが考えてもおかしな話だった。
 矢野絢也は冒頭の立党理念とうらはらに、国会議員、なかでも政党のリーダーという「重責」の立場にありながら、大衆のためでなく、自己の資産形成を優先させて、国会最終日に車をとばして自宅と国会を往復していた。往復にかかった時間は、40分から1時間くらいと思われるが、これが公明党の委員長に就任した人物の、就任後1年もたっていない段階での姿だった。

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