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堕ちた元委員長  68  3拍子そろった「失格」人生

2010年10月8日

 自民党と社会党の慣れ合い政治にくさびを打ち込もうと、「清潔な政治」を掲げて政界に飛び込んだ公明党。公明政治連盟として政治団体の届け出を行ったのは1961(昭和36)年11月というから、明年が届け出から数えて50周年の佳節となる。「大衆とともに語り、大衆のために戦い、大衆の中に死んでいく」という立党の原点が示されたのは翌年9月のことで、公政連第1回全国大会(東京)の席上だった。12月には大阪で同様の大会が開かれており、府議候補に内定していた矢野絢也も出席したはずである。公明党が結党されるのはそれからさらに2年後の、64(昭和39)年11月になる。
 矢野はその新生公明党において、67年、党書記長に抜擢された。だがすでに見てきたとおり、早くもそれから5年後の72年には、三重県のゴルフ場そばに別荘を購入し、73年、74年と出所不明の大金で自己資産形成のための不動産を所有した。支持者に隠れて「裏金」を得ていたことが強く推認されるが、そうした“狂った金銭感覚”はその後、党委員長時代に、明電工疑惑としてとりざたされ、政界を失脚することにつながった。それだけでなく、「清潔」を売り物に活動を続けてきた公明党も、存立の危機にさらされた。
 いまから振り返ると、矢野が公明党議員として「失格」の政治家であったことはだれが見ても明白である。
 党委員長を辞任後、大阪の支持者は選挙に再出馬する意思を崩さない矢野の支援をやむなくなく行った。当選したら支持者のところを自転車で回るなどの口先だけの約束は、その後、守られることはなかったという。それだけでなく、矢野は東大阪市の自宅を売り払い、東京・新宿に「豪邸」を新たに建設した。長年、手弁当で応援をつづけてきた支持者にはなんら恩返しする行動もなく、自己本位に生きてきた同人の軌跡といえよう。
 後年、今度は支援団体の注意を受け入れることもなく、逆恨みし、家族を巻き込んで「脱会」するに至る。さらに自己正当化の論理を並べたて、支援団体およびその関係者を民事提訴までした。これら一連の行動が、「人間の道」から見て、明らかに「失格」していることもはっきりしている。
 矢野には金銭スキャンダルで政界を失脚したあと、心を入れ替えて再出発する「もう一つの道」があったはずである。だが本人はそうした道を歩むつもりはなかったようで、金銭への執着を維持し、矢野家の資産形成のために生きてきたように見える。同人が信仰していたはずの日蓮仏法では、金銭への執着は幸福の第一条件とはみなされておらず、むしろ「浅い幸福観」と位置づけられている。だが、そうした価値観にしばられ、まともな信仰人としての道を歩もうともしなかった。信仰者として「失格」した人生であることも明らかである。
 矢野絢也は、公明党議員として、人間として、信仰人として、3拍子そろった「失格」の人生を歩んできた。

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