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朝木明代が生きていたらどうなったか――教団謀殺の「デマ」の恩恵で当選つづけた「矢野穂積」

2010年10月2日

 95年8月下旬、東京地検八王子支部から自身の万引き事件に関する呼び出し状の届いた朝木明代・東村山市議は、平静な心境ではいられなかったようだ。危機感を抱いたのは、同僚市議の矢野穂積も同様だった。本来なら矢野は、同年4月に行われた市議会選挙で「落選」した身にすぎなかった。それを上位当選した朝木直子の議席を返上させる形で、無理くりに「繰り上げ当選」をした立場だったから、なおさら差し迫った状況にあったと思われる。「次も落選する」との切迫感は、だれよりも強かったと推察される。
 検察庁への出頭に指定されたのは9月5日。朝木と矢野は9月1日の午後、表参道の病院に入院していたヤメ検弁護士のところに、事件対処のための相談に訪れたことになっている(もっともこのとき明代は病院には同行せず、自宅にいたのではないかとの説もある)。明代が“不幸な転落死”を迎えるのは、その日の夜半から未明にかけてのことだ。
 仮に明代の政治的影響力を失墜させることを目的とする勢力がいたとしたら、この段階では、すでに指をくわえて黙ってみていればそれでよかった。なぜなら、明代は万引き事件について、9月5日に出頭し、否認すれば、起訴されることがすでに濃厚であったからだ。そうなると、万引き事件を隠ぺいしようとして画策したアリバイ工作についても、「公の法廷」の場で明らかになるのは、すでに時間の問題となっていた。
 実際、このとき呼び出しを受けたのは、朝木明代だけでなく、同僚市議の矢野穂積も一緒だった。2人でなした「アリバイ工作」が世間に知られるところとなり、それに対する社会的制裁も当然のこととして予想された。
 東村山市議会選挙でトップ当選した女性市議が起こした万引き事件――。世間ではそんな人が万引きなどするわけがないと主張する者もいたが、ストレスがこうじると万引きに手を染める例などは比較的よく知られている。ともあれ、罪が確定すれば、女性市議の「評価」が大きく堕ちることになるのは目に見えていた。加えて、それまで明代と“二人三脚”で歩いてきた矢野穂積も、同様の影響を受けることは明白だった。しかも矢野は、万引き事件を隠ぺいするための「アリバイ工作」にも、すでに密接に関わっていた。
 この軽微な万引き事件が起訴され、罪が確定し、2人の隠ぺい工作が世間に明るみになれば、次の選挙では間違いなく、矢野穂積は≪落選≫していた可能性が高い。さらに、朝木明代の再選もどうなっていたかわからない。だが、その明代が死亡してしまったことで、事態は≪新たな局面≫を迎えた。しかもただ亡くなったというだけでは、局面の打開は望めない。朝木明代をあくまで「正義の戦士」として印象操作するには、何らかの「仮想敵」となる存在がどうしても必要だった。
 そこで矢野穂積が用いたのが、教団謀殺説という、オウム真理教事件が世間をにぎわせている時期にかこつけた“根も葉もないデマ”だった。まず乙骨某などの極めて浅はかなジャーナリストが磁石のようにこのデマに飛びつき、これまた低レベルの週刊誌が便乗した。
 結局、東村山デマ事件の発信源といえば、「矢野穂積」にほかならなかった。彼は教団謀殺説のおかげで、次の選挙で落選することもなく、これまで市議会議員の身分を続けることができたともいえよう。その意味で、矢野にとっての最大の恩人は、実は「教団の存在」といってよい。
 朝木明代が何も語れない「故人」となったことで、最も得をしたのは、「矢野穂積」にほかならなかった。矢野は、罪なき教団に責任を“転嫁”することで、自身の罪責を世間から見えにくくすることに成功したわけである。

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