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門田隆将にみる「捏造記者」へのステップ

2010年8月12日

 25年前の今日というと、1985(昭和60)年8月12日である。この日の夜、午後7時台に日航機不明の第一報が入った。そのとき私は東京・大手町の日本経済新聞社で学生アルバイトをしていた。最初、共同電だったか、時事だったか覚えていないが、社内のピーコでその一報が流されたのをいまも鮮明に記憶している。社会部は別の階にあったが、編集局はあわただしい雰囲気に包まれたことを思い出す。
 今日付の日経新聞・春秋の欄(朝日の天声人語にあたる)に、そのときの様子が出ていて、記憶が蘇った。「東京発大阪行の日航123便がレーダーから消えた」。時事通信の速報ファックスはそのような内容だったと春秋コラムは伝えている。日経関係者にも同機に搭乗して亡くなった人がいたことが判明するのは後のことである。
 当時、ノンフィクション作家の門田隆将は、週刊新潮編集部に所属する社員記者で、入社3年目。現地取材に派遣され、“一番乗り” を果たしたと本人がよく自慢していたという。本日付の読売・産経には、同人が執筆した著作の出版広告が大きく出ているが、25年前に新潮記者として取材した経験をふまえたノンフィクションのようだ。
 同人は、この取材で新潮社内で頭角をあらわし、あくの強い特ダネ記者としての地盤を固めていった。その意識は後年、週刊新潮社内で記事を執筆する立場になったときに、負けず嫌いの性格からか、結果的に多くの誤報・虚報を生む一つの要因になったとも見られている。
 主に教団がらみの報道に多く、94年の白山信之氏名誉棄損事件、95年の東村山市議転落死事件、96年の信平狂言事件と、教団関係のいわゆる「3大デマ事件」においていずれも中心的な役割を果たした。それでも同人は、これらの明らかな「虚報」について、いまもって被害者に謝罪したことは一度もない。
 振り返ると、こうした誤報を生むためのひとつのステップになったとみられるのが、日航機墜落事件における同人の活躍ぶりだった。いまは本名ではなくペンネームで活動しているようだが、上記のデマ事件などへの過去の関わりが、本名で執筆することのできない理由の一つと見られている。

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カテゴリー:コラム, 新潮社
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