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堕ちた元委員長  41  10年間も党勢回復できなかった原因

2010年4月4日

 矢野絢也が金銭スキャンダルで党首を辞任することになった1989(平成元)年は“選挙イヤー”で、東京都議会選挙と参議院選挙が予定されていた。年頭には北九州市議選も行われた。その年の5月9日、一審判決を受けた中瀬古氏は、2億円の現金の受け渡しは「矢野本人との取引だった」と真相を暴露したため、その決定的な証言は新聞・テレビで大きく流された。「虚言」でごまかしを続けた矢野が委員長辞任の記者会見を行うのは、それから一週間後の5月17日のことである。
 翌日、新委員長に石田幸四郎が内定。その間、支援団体からは「選挙を戦えない」などの声がほうはいとして起こり、党内でも「結党以来、最大のピンチ」と認識された。
 案の定、2ヵ月後に行われた都議会選挙では、公明党は28人の候補者を擁立しながらも2人の現職候補を落選させてしまう。定数4の渋谷区で13票差の次点に泣き、同じく定数4の目黒区でも約1000票差で次点となった。以来、渋谷区で候補者擁立は困難となり、目黒区がその後常に超激戦区と位置づけられるのも、こうした経緯と無関係ではない。
 同じ夏に行われた参議院選挙でも、公明党の比例代表の全国得票総数は、前回選挙時の743万票から609万票へと、100万票以上も大きく落ち込んだ。以来、公明党の比例票が700万台を「回復」するには、さらに10年近い歳月を待たなければならなかった。党首自ら引き起こした金銭スキャンダルの影響などから、その後公明党は1998年に至るまで党勢を回復することができなかったのである。
 中心者が狂ってしまうと、組織は甚大な損害を受ける。矢野はそのことを自ら証明してみせた。

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