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“良心の呵責”を持っていた「朝木明代」と持たなかった「矢野穂積」

2010年1月12日

 わずか1900円の万引き行為を咎められ、被害者の洋品店に素直に謝罪すればそれで済んだ話だったにもかかわらず、罪を認めないどころか、逆に洋品店に対して“お礼参り”的な行動を重ね、さらには同僚市議の矢野穂積とともにアリバイ工作にまで加担し、結果的に死ぬことになった朝木明代市議。
 同市議が検察庁への出頭要請を耳にした95年8月末から、同市議の心理状態はかなり動揺した様子を露見させていた。その頃、フラフラと歩きながら市長車が危うく明代を轢いてしまいそうになる事態も起きていたし、明代が市内の各所でぼんやりとたたずんでいる姿を見た人も複数存在した。転落死の事件当夜も、自宅と事務所、あるいは転落現場付近をうろうろしていた姿を市民らに目撃されている。
 明代は自分がしてしまった「万引き行為」の結末をだれよりも気に病んでいたことは明らかだった。またこうした情報はすでに断片的には捜査当局にも入っていたようだ。なぜなら当時、万引き事件を捜査・送致したのは東村山署であったから、朝木市議の動向に関心をもつのは当然のことだった。
 明代が転落事件を起こした後、同僚市議の矢野穂積は、「トップ当選するような人がフラフラとはだしで外を歩くようなことをするはずがない」(趣旨)などとマスコミ相手に訳知り顔で語ったが、これは矢野一流のプロパガンダの類いにすぎなかった。実は、明代がどのような心理状態にあったかをだれよりも知悉していたのは、矢野本人だったと思われる。
 加えて、事件当日の午後は、矢野と朝木の2人は検察官出身の弁護士のもとに相談に訪れている。そこで「事実を認めないと、立件されるよ」と厳しく言われた可能性もある。矢野がこれまで一人で主張してきたように、なごやかな相談になったとはその後の展開から考えても、到底考えられないというべきであろう。
 同日、午後7時に事務所に戻った2人だったが、明代はその後も不審な行動を繰り返した。フラフラと事務所、自宅などを一人で出歩いていた姿を目撃されている。そうして9時19分、自宅から事務所へと思われる通話記録を残し、10時には転落現場で事件を起こす。この間わずか40分だが、自宅から事務所まで徒歩5分、事務所から転落現場までわずか1分の距離だ。仮に9時19分に「休んで行きます」と言っていたにせよ、矢野の主張によれば、事務所にはバッグが残されていて、翌日出張用のレジュメも作成しなければならない状態だったわけだから、まもなく事務所に戻った可能性はかなり高い。そこで明代は矢野穂積からどのような言葉を投げつけられたのか、想像してみるといろいろなパターンが浮かび上がる。
 いずれにせよ、9時50分すぎに事務所に戻ったところで、転落現場までわずか徒歩1〜2分。時間的には間に合うのだ。事務所を突然飛び出していって、はだしで歩いたとしても、だれからも発見されずに転落現場にたどりついた可能性はかなり高い。さらにそこで残された現場証拠は、典型的な「ためらい自殺」そのものであり、どう逆立ちしても、他殺とは結びつかない内容だった。
 仮に本当に「他殺」であるとしたなら、だれにも見つからない山中などにまず運ぶのが各種事件からも容易に想像できることであろう。この事件は逆に、市内でもっとも明るい、人通りの残る場所にわざわざ運んだことになるから、その可能性は≪皆無≫といってよい。
 結局、朝木明代は良心の呵責をもつ≪普通の人格≫であったがゆえに、自責の念にとらわれ、自死の道に入りこむことになった。一方、残された矢野穂積は、良心の呵責をもたない≪特異人格≫であったがゆえに、同僚の死でさえもいいように“利用”し、自己に都合のいいように事実関係を捻じ曲げ、何の罪もない教団に責任を転嫁し、自己保身のための「責任逃れ」にひた走ることになった。
 そうした邪まな情念に踊らされた哀れな“ジャーナリストもどき”の典型が、乙骨某ということになる。その意味で、この「でっち上げ事件」を情報操作した主犯は矢野穂積、従犯は乙骨某をはじめとする当時の週刊誌メディアなどであったということがいえよう。

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カテゴリー:コラム, 矢野穂積
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