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帰国第一船が出て50年  北朝鮮帰国事業

2009年12月14日

 1959(昭和34)年12月14日午後2時、北朝鮮に向けて、2隻のソ連船が出港した。多くの在日コリアンを乗せたその船は、社会主義の優位性を誇示する目的で始められた帰国事業の最初で、以来、10万人近い在日が極寒の地にわたった。日本での就職差別などあらゆる差別を身に受けた当時の在日コリアンは、若者など優秀な者ほど先に北へわたったとされる。
 帰国事業とはいうものの、正式には「帰国」ではなかった。在日コリアンの9割以上は韓国地域の出身者であり、北朝鮮地域の出身者はほとんどいなかったからだ。正式には「移住というべき」と主張するのは、昨日都内で開かれた集会で基調講演した坂中英徳氏(元法務省東京入国管理局長)である。
 この事業により、在日コリアンだけでなく、6000人以上の日本人妻も同様に海をわたったが、いまも生きているのは100人程度と推測されている。さらに帰国した人々で現地の生活に耐えきれず、中国経由でひそかに日本に戻った人が200人程度いるとされている。社会主義が生んだ悲惨な現実の一面だ。
 昨日の集会でパネリストとして登壇したジャーナリスの萩原遼氏は、日本共産党機関紙「赤旗」の平壌特派員として仕事をした過去を話し、同国がいかにおそろしいスパイ国家であるかを体験に基づいて話した。さらに朝鮮労働党と日本共産党が「友党」関係にあった事実を述べ、友党の矛盾点は公表しないという原則が共産党内にあったこと、さらに帰国協力会の幹事に宮本顕治氏が入るなど帰国事業に党としてかかわった事実から、「日本共産党が恥部とするのも帰国問題」と指摘した。同氏はこうした主張をつづけたことにより、「日本共産党から追い出された」とその経過を語った。
 萩原氏の話によれば、日本共産党は帰国事業が行われている段階で、すでに北朝鮮がおかしいと認識していたにもかかわらず、「友党」のしがらみにとらわれ、相手に正しく諫言することもできず、むやみやたらと犠牲者を増やし続けたということになる。
 集会では、最後に、帰国事業で4人の息子を北に送った母をもつオペラ歌手・田月仙さんのドキュメンタリー映画が上映された。10万人近い帰国者には、それぞれ家族がいて、親兄弟が連なっている。会場ではすすり泣く声が消えなかった。

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カテゴリー:コラム
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