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堕ちた元委員長  19  苦学して京大入学

2009年11月17日

 代議士初当選からわずか5年にして支持者を詐欺行為で騙す結果となった「野党政治家」矢野絢也——。同人の軌跡を知る上で、青年期のすごし方は重要に見える。後年の“ゼニゲバ男”としての拭いがたい体質も、実はこの頃のトラウマに由来しているように受け取れるからだ。
 矢野家の経済状態は、このころを境に“急変”していく。矢野絢也がのちに、「中学校のころはまだよかったのですが、高校、大学となると、きびしい生活環境を強いられました」(月刊時事・73年8月号)と語っているとおり、高校在学の半ばごろから、生活はとみに苦しくなったようだ。
 戦争は、順風満帆だった矢野家の生活を天国から地獄へと突き落とした。貸家を燃やしてしまっただけでなく、戦後の新たな財産税が重くのしかかり、新円の切り替えやインフレなどが苦しい生活をさらに逼迫させた。財産管理の生活を続けていた父親の重光は典型的な「放蕩息子」のタイプで、時代の変化に即応できず、資産状況は悪化するばかりだった。
 仕方なく、妻の菊枝がファスナー加工の下請け仕事を始めた。絢也は母ひとりに仕事を任せるわけにもいかず、このころから、受験勉強と内職の“二束の草鞋”を履くことになる。矢野は「文藝春秋」(95年11月号)に寄稿した「しゃない息子」という短いエッセイでこう記している。
 「私が京大を受験したときが最悪の状況だった。私が寝ているとき隣の間で両親が『一人息子だから学費はなんとしても出そう』とボソボソ話し合っているのを聞いて布団のなかで涙したこともあった」
 高校卒業が間近に迫った正月、矢野の所属する山本高校ラグビー部は、全国大会の大阪予選で準決勝まで進んだという。ところが、本人はひたすら優勝しないことを願い続けたという。優勝すればいやでも試合に出なければならなくなり、スパイク代やユニホーム代などでかなりの出費が予想された。矢野家の窮乏は、そうした出費にさえ事欠く状況だったようだ。当時の時代背景からすればありがちな話の一つにすぎまいが、そうした苦境にあって、両親は息子を何としても大学に進学させたいと希望していた。
 このころのエピソードに、受験参考書を黙読しながら、母親のファスナー加工の手伝いをしていて、規格外れの出来損ないのファスナーを作ってしまったという話も残っている。
 当初は、医学部を受験しようと考えたこともあったらしいが、学費がかさみ、卒業後もさらに研修を受けなければ独立できないため、家計の状況から考えて志望学部を変更し、京大の経済学部に狙いを定めた。
 1951(昭和26)年4月、幸運にも現役入学を果たした。あの“希代のペテン師”山崎正友が、同じ大学の法学部の門をくぐることになる55(昭和30)年よりも4年ほど早かった。

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