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堕ちた元委員長  18  「青びょうたん」から「矢絢」へ

2009年11月16日

 1945(昭和20)年3月、大阪一帯は米軍による大空襲で焼け野原となった。このとき100軒ほどあったという矢野家の貸し家も壊滅的なダメージを受ける。空襲で多くが焼失してしまったからだ。そのため戦後は土地を切り売りして生活するしか方法がなくなり、一気に没落に転じた。
 大空襲直後の4月、矢野絢也は旧制八尾中学校に入学する。実際は、入学試験の前日が大空襲の日で、答案用紙が燃えてしまったらしい。当時の校長は、「受験生集合! よおし、全員合格! 解散!」と叫んで受験者全員の合格を決めてしまったというから、戦中ならではのほほえましいエピソードであろう。結局、無試験で入学することができた。矢野はあのとき試験があったら「落ちていたかもしれない」と後年回想している。
 終戦間際の8月13日、原爆の噂を聞きつけた矢野父子は急きょ、奈良県の農家に疎開した。後から来るはずだった母親はいつまでたってもやって来ない。何かあったのではないかと心配していると、近所の人が「あんた何言うてます。戦争は昨日終わりましたで」と教えてくれた。親子はそこで初めて終戦の事実を知ったようである。あわてて疎開してきたため、ラジオすら携帯しておらず、情報が何も入らなかったのが原因だった。
 ほどなく絢也は疎開先から八尾中学に戻った。終戦の年、同人は中学1年生だった。戦後まもなくの学制改革の実施。それまで男子校だった旧制八尾中学は、八尾高等女学校と足して二で割る形で分割され、八尾高校と山本高校が新設された。矢野は山本高校へ進学し、戦後の「男女共学」教育の一期生となった。
 矢野がどのような少年だったか、いまでは想像もつかないが、当時は線の細い少年だったようだ。その証拠に、中学校に入って付けられたあだ名は「青びょうたん」で、読書好きのおとなしい少年だった。近所の貸本屋の店主が、「ボンの読む本はもうない」と母親菊枝に告げて嘆いたというエピソードも残っている。
 “変身”しだしたのは、中学から高校にかけて取り組んだラグビーの影響だった。このころから晴れて「青びょうたん」を卒業し、あだ名は当時の慣例にならってか、「矢絢(やじゅん)」へと変わったという。
 体格は成長したものの、それでも性格的なおとなしさにあまり変化は見られなかったようだ。山本高校に通っていた同級生らは矢野の存在について、「あまり印象に残っていない」と語っている。

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