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Archive for 2009年11月

堕ちた元委員長  25  「邪宗参謀」と揶揄された男

2009年11月30日 コメントは受け付けていません

 まだ大学生の信者が珍しかった草創期において、矢野絢也は例にもれず、教団内でめきめきと頭角を現した。当時、同年代の田代富士男、矢追秀彦(いずれも後の参議院議員)、浅井美幸(後の衆議院議員)とともに、関西の「四天王」などと呼ばれた。
 同人の率いた部隊が、関西でトップクラスの組織拡大の成果を上げたためというが、京大出身ということもあり、期待された面もあったようだ。
 このころ、矢野は自分の部隊員を督励し、布教活動(折伏)の成果を確認するための電話を連日連夜、明け方まで架け続けたこともあったという。その結果、“恐怖の深夜電話魔”という異名をもつことになったともいう。ところが、個人としての信仰態度は、こうした激しい姿とはまるで異なったものだったようだ。
 当時の矢野を知る友人の多くは、矢野が学会員である事実を知っていたものの、それほど激しい折伏は受けなかったと口をそろえている。大学時代の友人の一人は、矢野が創価学会について、「こういう話もあるんやけど、ぐらいしかよう言いませんで」と述べ、「あまり模範的な創価学会青年部やなかったと思いますわ」と語っている(『矢野絢也・全人像』)。
 当時、こうした矢野の姿勢をいぶかしく見る人たちもいたようである。かつて教団のある幹部が、「四天王」を評してこう述べたことがあったという。
 「田代富士男は実行参謀、矢追秀彦は感覚参謀、浅井美幸は軟弱参謀、矢野絢也は邪宗参謀や」
 矢野を“邪宗参謀”と評したのは、どういう意味かはわからない。同人の二面性を指摘する意味もあったのかもしれない。

カテゴリー:コラム, 矢野絢也

「夜道を歩けなくなる」と絶叫する参政権反対論の右翼集団

2009年11月29日 コメントは受け付けていません

 昨夕、渋谷駅を通りがかると、外国人参政権に反対する右翼集団に出くわした。日章旗が多数乱立し、街宣車に乗って絶叫している人々がいる。「この法案が成立しそうになったら、国会議事堂を占拠しましょう」などといかにも物騒な、まるで安保闘争時代をほうふつさせるような演説をしていたのは、民主党所属の「右翼」都議会議員として名を売る土屋敬之という人物。そのほか、「若い女性が夜道を歩けなくなる」などと、何の脈絡もない危機論をふりかざして煽る弁士をはじめ、新しい歴史教科書を作る会の会長・藤岡信勝拓大教授が演説を終えたあたりで、小生はその場を離れた。
 あとで確認すると、極右・右翼団体として知られる「日本会議」関係の街宣行動だったようだ。それにしても、反対論の内容はこれまでさまざま聞いてきたものの、「夜道を女性が歩けなくなる」とは初耳の反対論である。いったい、どのような論理的帰結に基づくものなのだろうか。「外国人=犯罪者」という固定概念で頭を占拠されてしまった、哀れな人々の異常とも思える言動が、この社会に一定の根をもっていることも事実である。

堕ちた元委員長  24  辞表を叩きつけた過去も

2009年11月28日 コメントは受け付けていません

 当時のエピソードに、入社まもない矢野絢也に「矢野常務」のニックネームがついたとの逸話がある。同僚の証言によると、午前9時から午後5時までが会社の仕事、5時から10時までを同僚との麻雀、夜10時以降が教団の活動の時間とみなされていたようだ。
 当時、就職したばかりの矢野はそれなりに教団の活動にもまい進した。それでも、職場では社会人1年生の新入社員にすぎない。活動と仕事の両立は簡単ではなく、会社を休みがちになったこともあったようだ。
 1957(昭和32)年、教団は前年の参院選挙に続き、参院大阪地方区の補欠選挙に候補者を擁立した。入社2年目にすぎない矢野は、勤務態度の悪さを上司にとがめられた。同人は激しく逆上し、「ほな、辞めさしてもらいます」とたんかをきって辞表を提出してしまったという。
 「上役の言うのが当然、上役の言い分が正しい。社会的信用を保てない人間は、学会幹部として不適当だ」
 学会幹部にその足で謝ってくるように厳命された矢野は、会社に戻って上司にひたすら頭を下続けた。真摯な反省の態度にうたれたのか、会社の上司も謝罪を受け入れ、辞表は撤回された。
 それでも、矢野より2年遅れの1958(昭和33)年に大林組に入社した本田直吉は次のように綴っている。
 「昼休み時間になると、彼は必ず地下の宿直室で昼寝してしました。ところが1時を過ぎても起きてこないので、いつも2時ごろに起こしにいくのが私の役目でした。ことほどさように勤務態度の悪い人でした」
 このころから、要領のよさだけが目立っていたことを示すエピソードである。

カテゴリー:コラム, 矢野絢也

東村山のサイコパスから訴状が届く

2009年11月27日 コメントは受け付けていません

 すでに書いた事実すら小生の記憶から遠のいていた昨年9月のブログ内容について、修正を求める抗議など何らの事前の接触もなく、突然、訴状が届いた。名誉棄損による500万円の損害賠償と記事削除を求めて訴えてきたのは、東村山市議の矢野穂積。小生は当サイトの2008年9月13日付「『朝木明代』はなぜ救急車を断ったのか?」と題するコラムにおいて、朝木市議が転落死したあとの司法解剖で発見された両腕のアザについて、「ビルにたどりつく前にだれかと争った可能性も考えられる」と指摘した上で、「この件ではむしろ矢野は重要容疑者の一人」と記していた。
 この記述に対し、矢野は訴状において、「何の根拠もなく、公選による公職者たる原告矢野が、朝木明代議員の転落死に関し犯罪の重要容疑者であると決めつけ、公職者たる市議会議員として著しく的確性を欠く人物であるかのように印象付け」たと、提訴理由を主張する。訴状で問題とされた箇所は、この一点のみ。
 朝木明代元市議の転落死までのいわゆる「空白の2時間」について、今回、矢野は自ら争点にしてきたもので、この裁判では、矢野穂積がこの時間に何を行い、どう行動していたのかという「事実」についての真実性や相当性が問われる展開になりそうだ。当方にとっては、7件目の名誉棄損訴訟(民事)となる。

 【問題とされた日記】 http://www.yanagiharashigeo.com/kd_diary/kd_diary.cgi?viewdate=20080913

カテゴリー:コラム, 矢野穂積

堕ちた元委員長  23  就職浪人から大林組へ

2009年11月26日 コメントは受け付けていません

 大学卒業の年を迎えた1955(昭和30)年、矢野絢也は就職することができずに“留年”する。
 就職活動では、国鉄(現JR)や三菱の試験に挑んだものの、採用されなかった。当時は厳しい経済不況で、池田勇人蔵相の名にちなんで「池田デフレ」と呼ばれる低迷期だった。新卒者でも85%が就職できない時代だったという。
 それでも翌年になると、ようやく念願の「内定」を勝ち取った。就職先は、建設会社の大林組である。同社はその年、京大から1名だけの推薦採用を行う。京大では推薦の場合、志望者による抽選で決められるという不文律があった。矢野は12、3人の志望者のなかから運よくくじ引きにあたり、学校推薦という形で入社できることになった。
 大林組に入社してからはすぐに経理課へ配属された。大学でソロバンの経験があったわけでもなく、計算が合わないのでよく係長に叱られたという。そのためか8カ月ほどで総務部にまわされた。そこで担当したのが、株式や事業計画、訴訟関係の雑務である。法律事務所をまわるのも仕事のひとつで、この仕事のなかで法律に精通していった。加えて、業務を通じて株との関わりをもったことが、その後の矢野の人生に大きな影響を与えたあようd。
 この年(昭和31年)の夏、第4回参議院選挙が行われ、創価学会の支援する候補者が 初めて国政に進出した。全国で3人の当選者を生み出し、大阪地方区では白木義一郎が初当選を飾った。朝日新聞は「まさかが実現」と見出しを立てた。
 矢野の母親・菊枝の口癖は、「政治家と株屋と新聞屋にはなるな」というものだったらしいが、本人は後年、その政治家となり、さらに不透明な株取引疑惑で党委員長を辞任する≪失態≫を重ねた。引退後はまるで「新聞屋」のようにさまざまな新聞・雑誌に執筆を重ねたのは、母親の思いとは裏腹に皮肉なことだった。

カテゴリー:コラム, 矢野絢也

元厚労省女性局長を保釈

2009年11月25日 コメントは受け付けていません

 郵便不正問題で虚偽の証明書を発行したとして逮捕・起訴されていた元厚生労働省の村木厚子被告が24日、逮捕から約5ヵ月ぶりに大阪拘置所から保釈された。この問題では民主党の石井一・選挙対策委員長の関与がかねてより指摘されており、石井氏の元秘書・倉沢邦夫被告が具体的に行動したとされる。その倉沢被告の3回目となる公判が明日、大阪地裁で行われるというタイミングでの保釈劇だった。
 石井氏は先月、「石井・民主党副代表に背けなかった『厚労省女性局長』の心の引け目」というタイトルの週刊新潮の記事(6月25日号)を名誉棄損で提訴。1100万円の損害賠償と謝罪広告掲載などを求めているが、訴状では「原告は、訴外村木との間で何ら面識はなく、また第三者を通じて接触したこともなく、本件記事の内容は全く事実に反する」と主張するのみで、倉沢被告との関係などについては一切触れていない。
 倉沢被告の存在は、石井氏が「マルチ商法」業界を擁護するための議員連盟創設にかかわった際にも名前がとりざたされており、石井氏との二人三脚ぶりは政界では有名。今後の公判の行方が注目されている。

カテゴリー:コラム, 石井一

堕ちた元委員長  22  草創期の教団に入る

2009年11月24日 コメントは受け付けていません

 1953(昭和28)年9月、矢野絢也は母・菊枝とともに創価学会に入会した。昔から日蓮正宗の信徒であった叔母が、矢野家の惨状を見て熱心に入会を勧めてくれたためという。本人にすれば母親に義理立てしただけの形式的な入会にすぎなかったようだが、父親の病気や家庭内の行き詰まった経済状況を打開したいとの気持ちもあったに違いない。それでもまだ真剣に信仰活動に取り組むには至らなかった。その後、矢野の内面は徐々に変化し始める。
 父親・重光の病状の変化も、信仰生活にプラスの影響を与えたようだ。絢也が真面目に信仰活動に取り組むと、父親の病気は不思議と回復の兆しを見せ、休むと逆に症状は重くなったという。「仮病を使って、信心をさせようとしているのか」と疑ったことさえあったが、それでも父親の演技ではなさそうだった。
 入会2年目の昭和30年には隊長に昇格し、積極的に活動に取り組み始める。

カテゴリー:コラム, 矢野絢也