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堕ちた元委員長  4  「堕落」を始めた1972年

2009年10月7日

 1967(昭和42)年に代議士初当選した矢野絢也が3回目の選挙を迎えたのは、72(昭和47)年12月のことだった。つまりそれまでは、2期目の任期中だったということになる。
 その最中であった72年6月、田中角栄は、自民党総裁に就任する直前、『日本列島改造論』を世に問い、ベストセラーとなった。実際はこの本が出る以前から、今後の日本においては「土地」が投機の対象になることは関係者の間では周知の事実となっていた。まして仕事を通じて田中と親しく接していた矢野らにしてみれば、むしろ常識的な事柄であったと思われる。
 田中角栄は68(昭和43)年12月に自民党幹事長に就任し、71(昭和46)年7月にその職を辞任するまで、公明党幹部とも親しい関係を続けた。矢野が70年夏に、北海道選出の公明党議員に頼んで、地元の不動産屋を紹介してもらったのは、そうした背景と無縁とは思えない。北海道の広大な土地はいまだ手付かずの状態であり、将来、新幹線が通ることにでもなれば、膨大な「利権」が生まれることは明白だった。
 その意味で、1972(昭和47)年という年は、公明党最高幹部が「大衆とともに」という原点を見失っていった象徴的な年として振り返ることができると思われる。まず、矢野はこの年の7月、三重県賢島のゴルフ場隣接地に300坪以上もの「別荘」を購入している。同様に、竹入義勝も同じ年の9月、東京・恵比寿に豪華な土地・建物を購入した。
 矢野にとってこの年が象徴的なのはそれだけではない。北海道の代議士を通じて紹介されていた旭川市の不動産会社を通じて、「原野商法」に本格参入した年として記録されているからだ。
 原野商法とは、ただ同然の原野を、高値で売りさばく典型的な悪徳商法の一種として知られている。矢野は巧妙にも自ら直接手を下すことはなかったとはいえ、配下の秘書や従兄弟などを使って、地元選挙区(東大阪・八尾)などの支持者の中から富裕層を対象に話をもちかけた。そのため、被害者のなかには矢野の支援者や親族が多く含まれる。
 結局、これらの土地は、いまもって二束三文の土地であり、完全な「詐欺行為」にほかならなかった。この時点で矢野は、まさに「議員バッジをつけた不動産屋」にすぎず、その痕跡は多くの不動産登記に残されている。
 矢野絢也の公明政治家としての「狂い」は、判明している限り、70年7月、公明党書記長という政治的立場(一種の政治権力)を利用して、私益目的で始めた行動に容易に見出せる。その延長上に、72年に営業を活発化させた「原野商法」があるわけだ。
 矢野は2005年12月号から始まった「財界にっぽん」という雑誌の告発キャンペーンで、原野商法詐欺について執拗に追及される身になったにもかかわらず、この問題について、虚偽事実の記載による名誉棄損で訴えることはついぞなかった(すでに多くが時効となっている)。
 この事実は、党書記長という立場を使って、「金儲け」のために、支持者を「詐欺」に陥れた事実を自ら認めているに等しい。連載冒頭で、矢野は公明党議員の「反面教師」と書いたのは、まさにこれらの点に求められる。
 「大衆のため」ではなく、「自分のため」という“魔性”に魅入られた瞬間、矢野の内面において、公明党の立党精神は見事なまでに崩れ落ちていた。その時点で、支持者にはまだ見えなかっただけの話である。それから10数年後に発覚した明電工事件なども、実はこれらの延長線上に必然的に起きた帰結にすぎなかった。
 重要なことは、矢野絢也が代議士初当選からわずか5年にして、公明党政治家としてのクリーンさを失ってしまったという「事実」である。

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