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堕ちた元委員長  1  矢野絢也という政治家が出た

2009年10月1日

 かつて矢野絢也(1932-)という名の政治家がいた。後世の歴史家がどう判断するかは知らないが、公明党内における評価は永遠に変わることはないだろう。結論すれば、「反面教師」の存在にすぎない。
 衆議院議員になった67(昭和42)年から93(平成5)年までの25年余の間に、公明党書記長を20年近くつとめ、その後、第4代の公明党委員長に就任した。89年に億単位の不正な株取引をとりざたされて党委員長辞任を余儀なくされ、議員を辞めたあとも、東京都内の時価数億円の豪邸に暮らす。自民党議員ならよくありがちな「利権政治屋」というだけで済む話かもしれない。ところが公明党の場合は違う。1964年暮れに正式結党して以来、立党理念はある種、崇高な理想を説いていたし、何より矢野自身が、そのことを強調して国会に登場した張本人であったからだ。
 公明党が67(昭和42)年に初めて衆議院に進出して以来、矢野が書記長就任後の最初の予算委員会で行った自社馴れ合いの象徴であった「国会対策費」の追及は、その最たるものだった。いまとなってはその行動も、「パフォーマンス」そのものだったことは歴然としている。カネの問題で既成の国会勢力に鋭く斬り込んだかに見えたその人物は、最後はカネまみれになって自ら永田町から姿を消す運命となった。
 繰り返すが、矢野が自民党の政治家であれば別にたいした問題ではなかったと思われる。だが彼は違った。大衆の土壌から生まれ、大衆の中に死んでいくはずの政党の最高幹部に抜擢され、その期待を一身に浴びて国会に出て行った人間にほかならなかったからだ。その背後には一千万人もの庶民の熱い期待が込められていた。
 政治をよくしたい。清潔な政治を実現したい。そうした期待と理想を、彼は「見事に」裏切って見せた。
 赤じゅうたんを踏んだことによる己の過ちだった、と総括すれば、そのときはそれで済んだ話だったかもしれない。心を入れかえて再出発すれば、まだやり直しは可能だったろう。ところが、「俗人」の通例なのか、自分の悪事や罪責を認める器量に不足していたのか、世間が目にしたのは、よくありがちな自己正当化の論理をとことん貫く、保身に凝り固まった哀れな「元政治家」の姿にほかならなかった。すべての責任を自分以外の他者、つまり他人や環境のせいに「転嫁」してしまうことで、責任を丸ごと回避してしまうという≪小さな人間≫にありがちな行動そのものだった。そうした言動だけは、いまも一貫して変わらないようだ。
 この連載は、そうした≪小さな人間≫の起こした行動の軌跡を追い続けた記録である。

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カテゴリー:コラム, 矢野絢也
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