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矢野絢也の素顔  51  訪中団出発のころ

2009年6月3日

 創価学会の訪中団が初めて中国に向けて出発したのは1974(昭和49)年5月29日のことだった。池田会長を筆頭とする訪問団は中国大陸を縦断し、行く先々で大きな歓迎を受けた。公明党結成にあたり、会長が党に対し唯一、要望した政策が中国との関係であったことは有名な史実である。自身の兄たちが戦争で中国戦線に派遣されたことなど、戦中体験も大きく影響していたようだ。さらに仏法者として、仏教伝来の国である中国、朝鮮半島に対しては、日本文化の恩人という考え方が強くあった。中国はさらに、日本の敗戦に際しても、賠償責任の追及を放棄してくれていた。こうしたさまざまな背景をもとに、池田会長は1968(昭和43)年、学生部の総会で日中関係について言及し、注目されていた。
 その歴史的な訪中が現実になったころ、公明党書記長の矢野絢也は何をしていたのか。
 1973(昭和48)年2月には、詐欺商法に手を染めた不動産会社「善興」の設立に関与し、後援会メンバーなどを相手に原野商法詐欺を盛んに行った。同年8月には東大阪市内に5600万円(当時)の鉄筋3階建ての自宅を購入し、翌74(昭和49)年1月には奈良県生駒市に800平方メートルの土地を購入する。さらに同年7月には、東大阪市御厨に所有していた以前の自宅を売却している。
 要するに、不動産をもとに「蓄財」に精を出していたわけである。党創設者が隣国との「友好」という重要な仕事に着手していたその時期に、党の最高幹部の一人であった矢野は、親族を使った詐欺商法で有形無形の利益を得て、「自分のため」の財産拡大に奔走していた。政治的立場を「自分のため」に利用した矢野と、日中の万代友好のために力を注いだ党創設者。当時から、矢野の一念の狂いは明白であった。35年前の出来事とはいえ、そうした構図はいまもまったく変わっていない。
 変わったのは、矢野絢也の「正体」がバレてしまったという「事実」だけである。

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