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矢野絢也の素顔  49  息子を創価学園に行かせなかった矢野絢也

2009年5月29日

 父親の絢也がその年の暮れに公明党委員長に就任することになる1986(昭和61)年、一人息子の矢野清城は読売新聞社に入社した(4月)。群馬県前橋支局に配属となり、記者生活をスタートさせた。ところが、絢也の委員長就任からわずか4ヵ月あまり後の87年4月末日付で退社している。記者生活はわずか1年だった。この清城氏、入社早々の86年5月25日付の1面で、エイズ問題にからむスクープ記事をものにし、異例の活躍をしたこともある。それでいてその情報源は「父親」との噂も流れていた。事実なら、親バカを象徴するようなエピソードかもしれない。
 清城氏は一橋大商学部卒業後、米国の州立大学に一年間留学。線が細かったのか、政治家2世呼ばわりされるのに嫌気がさしたのか、それとも党委員長に就任してすぐに父親が「新委員長のアンタッチャブル金脈」などと雑誌で書かれた金権体質が癪に障ったのか、退社の理由は定かではない。父親の矢野絢也は清城が読売を退社した翌月の87年5月には、新宿区二十騎町の「時価8億円」とも書かれたことのある豪邸の一室で、明電工の専務に2億円の札束を直接手渡していた(後日発覚し、委員長辞任の引き金となった)。
 絢也にとって、目に入れても痛くない存在であるはずの清城への教育方針においては一つの明確なものがあったようだ。教団や党幹部の子弟は創価学園などに学ぶことが多いものの、そうした教団系列の教育機関へ進学させなかったことが端的な証明のようだ。学力が足りないというのであれば理由は立つが、清城氏の場合はそうではない。一橋大に合格したのだから、その点が、入りたくても入れなかった竹入の息子などとは全く違うとの評価もあったようである。
 いえることは、矢野本人は死ぬまで教団に恩返ししていこうとか、息子にもそうした道を歩ませようなどという思いは、最初からはなはだ薄かったという事実であろう。その帰結が「現在の姿」であり、当時から“伏線”は張られていたとみるべきかもしれない。所詮は、自分が与えられた政治的立場を利用して、自分や一家の“利益”のために使ってきただけの男といわれても、外れた指摘とはいえまい。

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カテゴリー:コラム, 矢野絢也
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