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編集者の甘え

2009年5月20日

 休刊になった講談社発行の月刊現代の後継雑誌の準備版のようなものが書店に並んでいた。『ノンフィクションと教養』と題するムック本だが、そこでWiLL編集長の花田紀凱氏が「新聞は『書かないこと』が多すぎる」という自ら執筆した文章の中で、次のように記述していた。
 「『週刊新潮』は一貫して厳しい創価学会批判を今も続けている。学会系の印刷物にデスクの顔写真まで掲載され、反撃されてもへこたれない」
 さらっと書かれたわずか4行ほどの部分だが、これを読んだ一般読者は、教団は編集者の顔写真までさらして反撃してくるのか、と勘違いするだろう。ここでは重要な一文あるいは説明が故意にか抜け落ちている。このデスクがどんなことをしたからそうなったのかという説明がなされていないからだ。
 当時、週刊新潮に在籍していた門脇某デスクは、函館市在住の元学会員の詐欺師夫婦の虚言をきちんと検証することなく、妻の主張した狂言をそのまま手記にして掲載した。その構図は、今回の阪神支局襲撃事件手記のイカサマぶりとまったく同一である。完全な“虚報”にすぎなかったからだ。
 事実で批判されれば当事者は納得できる部分もあろう。だが、裏づけもとらないまま、詐欺師の虚言に乗せられて誤報を連発し、その結果責任も負おうとしないこの男性に、学会系の印刷物がその顔を世間にさらして反撃したからといって、それはその男性の「自業自得」というものではないのか。
 仮に今回の阪神支局デマに怒った被害者が、殺害された朝日記者の遺族、あるいは実行指示者と名指しされた元米大使館職員であれ、新潮の編集責任者である早川清、あるいは取材記者の顔をさらして抗議のための反論文を発表しても、世間は当然の報いと見るのではあるまいか。なぜなら、彼らはそれくらいのリアクションを生んでも仕方のないほどの悪影響を社会にふりまいたからである。
 短い文章ながら、上記の花田氏の書き方には「虚報」をあえて“容認”するかのような心情が垣間見える気がする。
 「虚報」はどこまでいっても「虚報」であり、その結果責任を負うべきは、取材執筆者と編集責任者にほかならない。編集者側にこうした“甘えの心情”がなくならない限り、今後も業界的には「虚報」はつづくであろう。そして雑誌メディアは読者の信頼を失っていく。

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