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矢野絢也の素顔  24  「政治」で結果を残せなかった男

2009年3月17日

 政治の世界は結果次第とよくいわれる。「結果責任」が強く問われるのもこの世界の特徴のひとつだ。意識せずとも何気なしに行った行動・政策が国民に大きな損害を与えれば、当然ながらその責任を厳しく問われることになる。
 公明党が戦後唯一の全国的な組織政党として出現したのは、「政界浄化」が一つの大目的であった。都議会での実績からスタートし、それは国政にも波及した。1967(昭和42)年に衆院に25人の当選者を出し、政党としての形式を整えた。いまから振り返って、公明党内が決定的に「変質」したと思われるのは、70年の政教分離宣言以降のことで、72年に田中角栄内閣が発足すると、公明党幹部にも多くの金が流れたようだ。
 事実、矢野が三重県のゴルフ場そばに別荘(確認できる最初の不動産)を取得したのも、委員長の竹入義勝が渋谷区に豪邸を購入したのも同じ72年のことである。翌年には矢野は東大阪に3階建ての豪邸を購入する。これらはいずれも抵当権が設定されておらず、キャッシュで購入したと見られている。要するにこのころから、少なくとも2人の党幹部に限っては、“カネ漬け” にされていたといってよかった。当初の「政界浄化」の大目的は、この時点でもろくも崩れ去っていたのである。
 その意味では、1989年に矢野が金銭スキャンダルにまみれて“失脚”せざるをえなかったのは、理由のないことではなかった。むしろ必然的な帰結だったといえよう。矢野は結局、公明党の立党理念を政界のなかに厳と打ち立てることはできないままに終わった。そればかりか、自分自身が自民党の金権体質にどっぷり浸かり、一方で支持団体にはまじめにやっているポーズをつくろっていた。所詮、裏では「野党の大富豪」「野党の田中角栄」「自民党でも通用する唯一の公明党議員」などと陰口を叩かれながらの政治家人生でしかなかった。
 政治は結果責任がすべてであり、その意味では、矢野は公明党の幹部政治家としてきちんとした「成果」を残せなかった。93年夏、矢野の「引退」と同時に、自民党が野に下り、公明党が連立の一角を占めたのは、皮肉な現象だった。
 矢野は後輩の市川雄一氏に激しい嫉妬を燃やし、雑誌などでも公然とその心を剥き出しにした。所詮は仕事を残せなかった≪中途半端な人間≫の特有の感情でしかなく、それがいまに至るまで、党内的には「矢野問題」として連綿と続いているにすぎない。
 仕事のできない者に限ってキャンキャン吼えるタイプがいる。矢野絢也はまさにそのタイプである。

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