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矢野絢也の素顔  15  内部情報を外に漏らし続けた“背信の徒”

2009年2月25日

 1988(昭和63)年は公明党にとって“受難の年”だった。党所属の国会議員が不祥事で逮捕・起訴される事件が初めて起きたほか、明電工疑惑の中心者であった中瀬古功が逮捕・起訴され、それにつづいて公明党のトップであった「矢野絢也」の名前が取りざたされるようになった。最初に中瀬古と矢野の関係を指摘したのは、同年8月6日付の産経新聞とされ、さらに11月になると「赤旗」や「東京スポーツ」が疑惑を詳しく報じ、12月の「朝日新聞」のスクープでそれらは決定的なものになった。じりじりと真相を追及してくる朝日新聞は、矢野にとって厄介な存在に映ったにちがいない。
 いまから振り返ると、同じ系列の「週刊朝日」が同年8月5日号に掲載した「藤原行正都議の衝撃発言」と題する5ページの特集記事は、矢野絢也の“二重人格”ぶりをそのまま浮き彫りにするものだった。この記事で藤原行正は、矢野が以前から反学会ジャーナリストとして知られる「内藤国夫」に対し、教団中枢の情報を密かにリークし続けていたことを指摘し、矢野と内藤との関係について「とにかく親密ですよ、2人は」と証言していた。
 その後明らかとなる明電工の仕手株問題でも、内藤国夫は明電工の“提灯記事”を自ら手がけるなどし、中瀬古からもらった金で自宅を新築したという話も流れていた。矢野が自己資金を明電工がらみの株売買に投入していたことはすでに公知の事実だが、ここにも矢野と内藤の密接な関係を思わせる「痕跡」が明瞭に残っていた。
 上記の「週刊朝日」記事によると、内藤は矢野のもとに「新宿の田中」などといった偽名を用いて頻繁に電話連絡していたといい、そうした機会に矢野は学会・公明党の中枢情報を提供していたようだ。要するに、矢野は味方のふりをして敵対者に内通してきた“不倶戴天”ともいえる存在であり、その意味では、“背信の徒”といわれても仕方がない。
 それから3ヵ月ほど後、矢野は自身と明電工疑惑との関わりを詳しく報じた東京スポーツや朝日新聞社を刑事告訴してみせたものの、一方で同人をあたかも「スパイ扱い」した上記の週刊朝日の記事に対しては、一切そうした法的措置をとらなかった。これでは自分が“マッチポンプ”のスパイであったことを自ら認めるようなものであり、そのような人間が当時、公明党委員長を務めていたことになる。
 矢野絢也の二重人格・背信性は、こういうところにも顕著ににじみ出ている。面従腹背、表の顔と裏の顔はむしろ逆であったことをおのずと示しているからだ。

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