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矢野絢也の素顔  7  「国会手帳は燃やしても構わない」

2009年2月11日

 2005年5月、矢野の自宅に元公明党国会議員の3人が訪れた。都合3回、そうした訪問が行われ、公明党議員OBとして“孤立”していた矢野との間で話し合いがもたれている。矢野は明電工事件で委員長職を辞任後、25年表彰がほしくて単独でもう一期をつとめ、議員引退した。その後、地元の党員が自宅にポスターを貼らせてほしいとお願いにいっても誠実な対応はみせず、申し訳程度に1枚貼らせるだけ。公明党議員OBのための定期的な会合に出席することもなく、さらに選挙の応援に動いたこともない。党代表をつとめた人物でありながら、引退後は自分勝手に生きてきただけだった。そんな矢野の姿を見かねたのかOB3人が訪れた際、矢野はこんな言葉で応じている。
 「この10年間は、皆さんと疎遠になって、ぼくも寂しかった」
 「きっかけがないもんでね、わしは、あなた方のお陰で救われた」
 さらに矢野が所有する過去の国会議員手帳について、矢野はこのとき「燃やしてもいい」とさえ明言していた。さらに実際に預けるときには、「謗法(ほうぼう)払い」という言葉を自ら使って手帳を差し出していた。自分がもっているとろくなことに使わないから、この際、自発的に預けることを意味する“象徴”の言葉ともいえた。
 その後矢野は、この手帳を3人に「強奪された」などと主張し、週刊誌にも書かせたが、事実関係はまったく逆である。最近出たとある本にもこんな記述がなされている。
 「テレビや机なら、押し入って奪えるけど、手帳やメモというのは、普通、本人でなければ出せませんよ。東京地検特捜部でもないかぎりムリです。どう見たって、手帳は本人が家のどこからか出してきて渡しているんです」
 矢野は手帳を渡すにあたって、自ら「念書」まで作成していた。その内容は、(1)矢野は3人が承諾する案件以外に手帳を利用しないことを約束、(2)矢野の了解なしに開封しない、(3)矢野死亡時には矢野の息子と3人で協議する——などとなっていた。
 繰り返しておくが、これは3人が要請して作成された「念書」ではなく、矢野が自発的に作成したものの内容である。矢野はここで自らの死後のことまで明記していたわけだ。これで「強奪された」などの主張が成り立つはずもないことは、第三者の目にも明らかであろう。
 だが、矢野はこのやりとりについて「週刊現代」側に説明するとき、念書の存在は一切知らせていない。意図的な行動にほかならないが、こうした一方的なリークに簡単に踊らされたのが「週刊現代」である。そのメディアも矢野とともに2007年12月、一審判決で≪完全敗訴≫の道をたどった。
 矢野絢也はこのように事実関係の「核心部分」を自己に都合のいいように180度捻じ曲げ、マスコミにふりまくタイプの人間である。マスコミ関係者はそのことを重々弁えておくべきである。

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