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矢野絢也の素顔  4  「言行不一致」の政治家

2009年2月4日

 1967(昭和42)年1月に行われた総選挙で公明党は初めて衆議院に駒を進めた。一挙に25人が初当選した。そのなかに矢野がいた。当選から2週間後におこわなれた党大会で正式に書記長に就任する。公明党はそれまで参議院議員を主体とする政党だったが、このとき、政界の常識にのっとって衆議院中心の体制へと切り変わった。
 矢野新書記長の初の国会質問が行われたのは同年3月23日。衆院予算委員会が晴れ舞台の場となった。そこで政界史に残る演説を行った。当時、自民・社会の両党が表で喧嘩をしながら、水面下で談合している実態を、国会対策費を軸に追及したからだ。それまで永田町の慣例とされていたものを、いきなり“新生公明党”の書記長がナデ斬りする形になったので、国会内は蜂の巣を突いた騒ぎとなった。心ある有権者にも「おや?」と思った人が多かったに違いない。草創期の公明党にはこうした愚直さが光っていた。
 ここで指摘したいのは、矢野の過去の功績についてではない。政治家としてのその後の「落差」を見たいのだ。それから26年後の1993年6月14日——、朝日新聞・大阪本社版の夕刊は、「矢野絢也議員、資産10億円」という記事を掲載した。前年12月に成立した国会議員資産公開法に基づき、衆参749人の国会議員が“初の資産公開”を行ったための報道で、矢野の蓄財ぶりが初めて世の明るみとなった。このとき矢野は、同紙の取材に、「公明党はボランティアが応援してくれるので、他党のように選挙にカネがかからず、幸せだった」との有名なコメントを残している。
 この記事によると、地元の東大阪市の高級住宅地に邸宅、さらに東京・新宿に邸宅、奈良県生駒市にさら地。これらの不動産だけで、バブル時代なら20億円、記事掲載当時の時価で9億5000万円と指摘されていた。実はこれらの「原資」となったのが、冒頭に矢野自身が追及した「国会対策費」と見られていた。与党が重要法案成立などのために野党工作費としてばらまいた金のことである。
 矢野はすでに89年5月、自らの不透明な金銭取引をマスコミに指摘され、党委員長を辞任していた。そのころ、公明党は「結党以来最大の危機に直面」と報じられた。
 次の90年2月の総選挙で、長年コンビを組んできた同期当選組の竹入義勝は引退する。当然、矢野も一緒に引退すると見られていたが、金銭スキャンダルで党委員長を辞任し、支持者に多くの迷惑をかけた矢野は、「もう一期だけ」としつこくこだわった。いまとなっては、その目的は「在職25年の永年表彰」にあったともいわれる。支持者の血のにじむような努力により、なんとか最下位当選をはたしたが、それと裏腹に、“国会初”の資産公開の「洗礼」を受ける結果となった。素直に引退していれば表面化せずに済んだ、「公明」の名におよそ値しない“蓄財ぶり”が判明したのである。
 その意味で、冒頭の与野党の“札束国対”を追及した爆弾質問も、所詮は、ポーズにすぎなかったことになる。その事実は、後年、矢野が億単位の財産にしがみつき、醜い本性をあらわにしていった姿にもよくあらわれていた。

 ●「週刊新潮」がまた敗訴。今度は貴乃花親方夫妻に
 http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090204/trl0902041527007-n1.htm

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