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“詐欺師”のお先棒を担ぎ続けた「週刊新潮」

2009年1月7日

 本日首都圏で発売された「週刊新潮」(1月15日号)の墓碑銘の欄に、山崎正友の死去の内容が記されている。来歴とともに、妻の次のような言葉が紹介されていた。
 「平成7年から透析を続けていました。土いじりや花を育てるのが好きでしたが、昨年の1月頃からできなくなりました。亡くなる2日前、飼い猫を撫でながら、幸せだったよ、と話しかけておりました」
 「週刊新潮」は末尾に、山崎が「再審請求を準備していた矢先だった」と締め括っているが、嘘八百もいいところだ。山崎は93年に黒羽刑務所を仮出所後、それから15年以上にわたってしばしば再審請求を口にしてきた。結局、ポーズにすぎないことは明らかだった。正確に書くなら、「15年前からずっと再審請求の準備を“公言”してきたが、ついにできずじまいで終わってしまった」とすべきであろう。
 この墓碑銘記事に出てくるコメント提供者は、妻を除けば、(1)小川頼宣、(2)乙骨某、(3)古谷博の3人である。小川は政教分離を考える会の代表で、いまは撒きビラ作成の責任者。その裏に山崎の影があったことを露呈させている。さらに教団を叩けるネタであればガセネタでも何でも飛びつく“著名”なジャーナリスト。加えて古谷は、山崎と同じく金銭問題や女性問題で教団を離れざるを得なかった問題人物で、逆恨みの感情で教団攻撃を行っている人間にほかならない。“希代のペテン師”を追悼するキャストとしては、それなりにふさわしい面々といえるのかもしれない。
 山崎は近年自ら起こした多くの裁判で、自身が過去に起こした巨額手形詐欺を否定していたが、結局、訴えておきながら、裁判では明らかに「墓穴」を掘っていた。要するに、それらの疑惑が真実であることが、反証による客観的な証拠などからすでに明白になっていたからだ。山崎は都合の悪いところでは、しばしば反論不能に陥ってもいた。裁判長もそのことをよく弁えている様子で、山崎には始終、注意する場面が目立った。その意味で、これらの裁判は山崎にとって「詐欺師」と呼ばれることを避けるための応急避難的な“濫訴裁判”といえたが、「詐欺師」はどこまでいっても「詐欺師」である。
 そうした人物と最後まで“二人三脚”で進んできた上記の3人、およびそんな人物を最後まで持ち上げてきた老舗メディア「週刊新潮」も、活字を通して、貴重な“汚点”を自ら残すことになった。

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