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「明電工事件」でガタガタになった1989年選挙

2009年1月4日

 いまから20年前の1989(平成元)年は、今年と同じく“選挙イヤー”と呼ばれる年だった。東京都議会選挙と参議院選挙が予定されていたからだ。年頭には北九州市議選も行われた。前年の88年6月、明電工という会社のオーナー、中瀬古功が脱税容疑で東京地検に逮捕される。8月の産経新聞で、中瀬古との関係について何人かの政治家とともに矢野絢也の名前がとりざたされた。矢野はそのとき「あずかり知らぬことで一切関与していない」と大見得をきった。“追撃”したのは共産党である。
 10月27日に共産党の国会議員が東京拘置所内の中瀬古被告と面会。そのとき中瀬湖は、矢野とは夫婦ぐるみの「親密な付き合い」であることを吐露した。同党機関紙の「赤旗」は11月21日付で記事として掲載。翌日、東京スポーツも後追い記事を載せた。委員長の矢野は不思議なことに、赤旗のほうは無視し、東京スポーツのみを提訴・告訴した(翌年11月に和解終結・刑事も取り下げ)。
 矢野の疑惑を追及するさらなる決定的な記事は12月9日、朝日新聞の夕刊に掲載される。明電工10億円株取引の名義人に、矢野の第一秘書、第二秘書、元第一秘書といった「矢野ファミリー」が密接にかかわっていることを示す内部文書がスクープされたからだ。矢野はこの記事もまた刑事告訴したが、翌年3月までには取り下げている。いわゆる政治家による≪ポーズ訴訟≫にほかならない。
 3日後の12月12日に行った記者会見では、それまで否定していた中瀬古や関係者との“接触”を認め、さらに自宅で2億円の大金を関係者に渡していた事実を“認めた”。ただし矢野の主張は、元秘書のための融資のあっせんというもので、加えて次のように話している。
 「私や私の家族、秘書が明電工グループの株を買ったり、政治献金を受けたことは絶対にない。政治生命をかけて断言する」
 そうして翌年の89年。中瀬古は、2億円の現金の受け渡しは「矢野本人との取引だった」と真相を暴露する。その決定的な証言は5月9日、新聞・テレビで大きく流され、「虚言」でごまかしを続けた矢野は進退きわまった。委員長辞任の記者会見を行うのは、それから一週間あまり後の5月17日のことである。翌日、新委員長に石田幸四郎が内定する。その間、支援団体からは「選挙を戦えない」との声がほうはいとしてわき起こり、党内でも「結党以来、最大のピンチ」と認識された。
 結局、2ヵ月後に行われた都議会選挙で公明党は2人の候補者を落選させ、同時期に行われた参議院選挙では前回票を100万票以上も下回り、610万票にとどまった。公明党の比例票が700万台を「回復」するには、さらに10年近くを待たなければならなかった。その間、矢野絢也の金銭スキャンダルなどの影響から、公明党は1998年に至るまで、党勢を回復することができなかったのである。
 党委員長として、公明党にこれだけ≪甚大な損害≫を与えた張本人が、いまは民主党と手を結び、古巣の公明党に攻撃を加えている。すべての本質は、自分の責任を“ごまかす”ところにしかない。

● 民主党の元代議士・永田寿康氏が昨夕、北九州市で飛び降り自殺した。現場マンションの10〜11階の踊り場には、「焼酎1・8リットルの空の紙パック」(朝日)と、「1枚半にわたって自殺をほのめかす内容をつづったノート」(毎日)が残されていたという。西澤孝というひとりのサイコパス的人間に関わって2006年に偽メール事件を引き起こし、結果的に犠牲となった。ご冥福を心よりお祈りしたい。

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