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「我欲」を出して委員長就任し墓穴掘った「矢野絢也」

2009年1月1日

 34歳の若さで公明党の書記長に抜擢され、以後20年間、委員長の竹入義勝とともに党を引っ張ってきた矢野絢也は、竹入辞任後の1986(昭和61)年12月、第4代委員長に就任した。矢野以外にまだ力ある後継者が育っていないからともいわれたが、矢野にとって、この「政党トップ」のポストは年来の悲願でもあったようだ。事実かどうか定かでないが、「週刊新潮」に竹入息子の医学部裏口入学の話を垂れ込んだのは矢野関係者が竹入を追い落とすための行動ともささやかれていた。
 当時、政界で矢野は、「公明党で唯一、自民党に行っても通用する男」と評価されていた。これは公明党議員にとってはまったく不名誉な言葉にすぎなかった。要するに、陰でカネを動かし、“政治屋”としての能力にたけているとの評価にほかならなかったからだ。実際、地元の選挙区以外に、東京にまで「豪邸」を構えているのは公明党の国会議員のなかでは矢野絢也一人であった。
 矢野の長年の錬金術、蓄財、不正のウミは、それから1、2年で何度も噴出した。リクルート問題をはじめ数々の党内不祥事。藤原行正、大橋敏雄などの造反。矢野は彼らからさえも、その不透明な蓄財ぶり厳しく糾弾された。大橋は同期当選組にすぎない矢野が、なぜそんなに金を残しているのか説明せよと迫ったからだ。
 88年12月9日の朝日新聞で、矢野の公設秘書など(いわゆる矢野ファミリー)が総額10億円の株取引をしたことが指摘された。巨額の株取引にからぬ脱税事件で逮捕・起訴された明電工の中瀬古功オーナーらとの関係が具体的に詳述されていたが、矢野はこのとき「知らぬ存ぜぬ」を決め込んだ。だが、それからわずか3日後、自宅で2億円の金を渡したことを自ら認めたのである。
 矢野は結局89年5月、委員長を引責辞任した。欲にかられて代表職に就いたまではよかったが、すでに自民党汚職議員らと同レベルの≪金銭腐敗≫の海に浸っていた自身の行動が、党全体に大きなダメージを与えることになった。公明党はそれまで何より「クリーン」で売ってきたからだ。その矢野の退任劇から、今年で20年。
 矢野は93年に議員引退し、94年3月、東京・麹町に個人事務所を開いた。政治評論家として再スタートしたわけだ。政党の代表まで務めた人間が「評論家」に転じるという行動は、後にも先にもこれが最初で最後かもしれない。「現実政治」に≪敗北≫した人間の行き着く先は、現実政治を他人事のように批評・論評して飯の種を得るしか道が残されていなかったようだ。それでも評論家でいる限り、世間からは「終わった人」とはみなされず、それなりの影響力を「温存」することもできたのだろう。
 新宿二十騎町に時価8億円の豪邸を構え、その自宅で1000万円の札束20個を平気でやりとりしていた“元公明党委員長”。国会では「野党の田中角栄」という、公明党議員としてはこれ以上はない不名誉な指摘を受けてきた“元公明党委員長”。
 こんな人間だからこそ、自らの半生を振り返り、虚心坦懐に誤りは誤りとして反省し、出直せばよかったものの、いまも≪悪あがき≫を続けているのが現実の姿だ。最近では、公明党と対立する立場にある民主党と手を結び、公明党攻撃に力を貸している。人間として、これ以上、最低の生き方はない。

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