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サイコパスはしぶとい

2008年11月12日

 サイコパスは良心の呵責をもたない狡猾な生き物なので、例え犯罪行為をおかしたとしても罪を逃れることが多いとされる。例えば、“資格を失った元弁護士”の山崎正友は顧問先を恐喝した容疑で81年1月に逮捕され、91年に最高裁で懲役3年の実刑が確定したものの、同人の犯した罪は恐喝罪に限らなかった。手形詐欺や計画倒産、取込詐欺など多くの経済犯罪をおかしたとされるにもかかわらず、手下の経済ヤクザに命じてすべてを「証拠隠滅」し、資金を渡して遁走させた。こうした行為により、警視庁は詐欺罪での立件を見送らざるをえなかったとされる。
 かろうじて立件できた恐喝罪にしても、同人はさまざまな「虚言」を用いて、法廷の場で最後まで罪を否定した。偽造証拠や証人のでっち上げは当たり前。それらもことごとく裁判所に見抜かれ、「まったく反省の態度が見られない」として、執行猶予すら付かなかった。サイコパス的人間に犯罪行為を認めさせるには、多大なエネルギーを要する何よりの証拠ともいえよう。
 「ロス疑惑」の三浦和義の場合は、共犯者が名乗り出た殺人未遂の「殴打事件」においてかろうじて罪が確定したものの、「銃撃事件」では共犯者と見られる銃撃犯人を特定できず、無罪放免となった。状況証拠からは、強盗がか弱い女性の頭を打ち抜き、男性の太ももしか撃たなかった事実、女性のバッグから現金を持ち去らなかった事実など、さまざまな不自然さが指摘されていた。仮にこの2つの事件がつながっているとすれば、後者は当然、「プロ」に依託された仕事と指摘する声も多かった。そのため、銃撃犯人はなおさら特定されにくい状況にあったといえる。
 「殴打事件」において三浦は、襲った犯人は中国人だ→「自白」の日本人女性とは現地で会っていない→実は会った→自分とは男女関係にあった、などと供述の中心部分を次々に変遷させた。同人にとってこうした“ウソの上塗り”はさして珍しくもない日常茶飯の言動にすぎなかったが、ありとあらゆるウソを重ねた上で、最後は女性の存在を認めるという成り行きだった。
 これらはサイコパスはたとえ明確な証拠があったとしても、最後まで責任を回避・否定するという顕著な実例にすぎない。
 三浦には、この2つの事件以外にも、同棲していた日本人女性がロスで変死体で見つかった「重大な疑惑」があった。同人は「彼女は北海道で幸せに暮らしている」などと女性の親戚らに盛んに吹聴していた。ところが、それも真っ赤なうそ。女性の銀行口座から数百万円もの現金を自らひき下ろし、“横領”していた。さらに女性がロスに入る2日前に同人もロス入りしていたことが判明。女性と現地で会っていないなどと最後までとぼけた主張を繰り返した。状況証拠から言えば、三浦がこの事件に何らかの形で関わっていたことは明白であった。
 だが、証拠といえるものは存在せず、本人が絶対に関係性を認めない以上、日米双方の捜査陣も手を出せないままに終わってしまった未解決事件である。
 サイコパス研究の立場からすると、記録に残された三浦和義の人生は、まさに「生きた標本」といえる。安倍隆典デスクが当時執筆した『疑惑の銃弾 三浦和義との闘い』(1985年)などを読むと、それらはまさにサイコパスの不正・言い逃れを追及したメディアの軌跡そのものの姿だ。
 繰り返しになるが、サイコパスはずる賢い生き物であるために、自分にとって不利な証拠を意図的に隠し、平気でウソをつく。その結果、通常の犯罪に比べて、罪を逃れることが多い。東京・東村山に住むサイコパス的人物も、多くのウソを繰り返しながら、いまものうのうと暮らしている。
 サイコパスは欧米では「スーツを着たヘビ」という別名で知られる。彼らが人間であるにもかかわらず、爬虫類生物のヘビに例えられるのは、その弱肉強食の性質からだ。女性やカネ、あるいは人間の命など、欲しいものを好きなように捕るその「捕食性」から来ている。
 刑務所内には、このような「スーツを着たヘビ」がうようよと収監されているが、罪を逃れて刑務所の外で狡猾に生きる「ヘビ」も世の中に一定比率で存在する。サイコパス研究の第一人者であるロバート・ヘア博士はかつて小生の取材に対し、「私が開発したサイコパス・チェックリストを使えば、その者がサイコパスであるかどうかは百発百中で診断できる」と明言していた。
 三浦和義をこのチェックリストで診断すれば、ほぼ満点に近い“完璧型”のサイコパスと見られる。小生が「生きた標本」という理由がおわかりいただけよう。

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