Archive

Archive for 2008年11月

田母神前空幕長の確信犯的動き

2008年11月30日 コメントは受け付けていません

 「日本は侵略していない」などと主張する論文執筆がきっかけで航空自衛隊トップの地位を追われた田母神俊雄・前空幕長が今後多くの講演会を予定しており、政府関係者がやきもきしているという。これらの講演会で同氏は持論をとうとうと主張すると見られており、これらの言動が与党批判につながるだけでなく、周辺アジア諸国との関係悪化を懸念する声が強いためだ。
 自衛隊は、海外活動を本来任務とする組織となったが、その元トップが旧日本軍の過去の行為をすべて免罪するかのような発言を繰り返すことは、そもそもが国益に反することであり、政府・与党はそれらの行為を事実上放置するしかないため、厄介の源と受け取られているからだ。 
 もともと同人の主張は、旧日本軍の中国侵略の多くは「共産党の工作・謀略」という内容の荒唐無稽なもので、いわゆる事実的根拠を欠いた責任逃れの一方的な主張でしかない。緻密な調査で定評のある保守者論客の秦郁彦氏でさえ、これらの≪俗説≫(=共産党謀略説)を明確に否定している。
 だが、こうした根拠の欠如した主張を繰り返す人間たちというのは、ある種、限られたグループであり、なかには櫻井よしこなどといった著名な「ジャーナリスト」なども含まれているものの、その多くは事実認識能力に問題のある人たちだ。その意味では、政治家(特に与党)がもっと明確に、同人の主張の何が誤りかを指摘し、世論に働きかけるべきだと感じる。
 【毎日jp】  http://mainichi.jp/select/seiji/news/20081130k0000m010061000c.html

カテゴリー:コラム

所詮は“徒党”を組まなきゃ何もできない「似非右翼」

2008年11月28日 コメントは受け付けていません

 先日の集会で取材拒否され、締め出された光景は象徴的であった。瀬戸某と称する男は「不愉快なんだよ~」と変な抑揚のついた言葉を数回繰り返し、わざと大声を発して仲間に小生の存在を知らせると、途端に周りを取り囲まれる格好となった。背中を向けて出口に歩き始めた小生に向かって、瀬戸某は「なめてんじゃねえぞこら」なる“捨てゼリフ”を吐いたことが音声に記録されている。所詮は、大勢で取り囲み、安全であることを確認してからでないと啖呵の一つも切れない御仁であることはこのときよくわかった。つまり、相手の人間のレベルを見切ってしまったから、別にどうという感慨も起きなかった。百聞は一見にしかずである。この種のタイプは、一人になるとからっきし何もできないことが多いので、徒党を組むことでしか存在感を発揮できない。その意味では、哀れな人間といってよい。
 主張することの内容にも、論理的な整合性や緻密な根拠といったものは見られない。中国人に対してなら日本人と違って何をしてもいいというような驕った姿勢、外国人の人権を守ろうと活動する弁護士に対しては「極左弁護士」あるいは取材する人間には「極左ジャーナリスト」というレッテル張り。欠落しているのは、ここでもその前提となる≪事実的根拠≫のようである。東村山問題に首を突っ込んだのも、大教団を脅すことによって、右翼としての存在感を誇示しようとした程度の動機にしか見えない。
 結局、あの「うんこ騒動」は何だったのか。あるいは「警察官の内部告発」はどうなったのか。都合の悪いことには一切答えず、自分の利害にかかわる都合のいいことのみの主張を続けるしか能がない。もともと、「被害者」と「加害者」の区別もつかない人間だから、いかんともしがたいレベルではある。
 こんな人間が「ジャーナリスト」なら、同業者はみな≪迷惑≫極まりなかろう。“思い込み”だけで行動するこの種の人間がのさばると、日本は一層悪くなる。日本社会に巣食う「ダニ」的存在といってよい。

カテゴリー:コラム, 瀬戸弘幸

被害者を“踏み付け”にしてペテン師を“擁護”する人間の「価値」

2008年11月27日 コメントは受け付けていません

 犯罪には被害者と加害者がいる。普通はそうである。その場合、ジャーナリズムにとって加害者を擁護し、被害者を踏みつけにするという行為は「正当」であろうか。よく言われてきたことではあるが、ジャーナリズムは常に弱者の側に立つべきであると小生は先輩ジャーナリストに教えられてきた。
 東村山市議「朝木明代」による万引き事件では、被害者は洋品店であり、加害者は朝木明代である。被害者は一般市民であり、加害者である朝木は公人たる市議会議員だった。事は単純な話である。
 ところがこの問題はこれだけでは済まされなかった。確信犯的な「画策」が裏でなされたからである。朝木が万引き犯人になっては、決定的に困る人物が存在したからだ。朝木の同僚議員で、朝木を陰で操ってきた会派「草の根」の事実上の中心者「矢野穂積」である。この男は、選挙がからきし弱い。少しでも問題が明るみになれば、次は落選しかねないという綱渡りのような日々をその後も送ってきた。当時も危機感は相当なものだったようだ。
 その結果か、朝木明代は取調べを受けた東村山警察署で多くの虚偽の供述を行い、しかもその嘘がはからずもバレてしまい、立件の一歩手前まで行くことになった。
 嘘の供述を行ったという証拠隠滅罪の加害者は、ここでも朝木明代自身である。
 ところがこのような犯罪実行者を擁護し、その偽証行動を“擁護”する「詐称ジャーナリスト」もいる。最低限の取材すらしないし、「思い込み」に沿う事実だけを拾って記事にするだけの人間なので、まともな取材者にははなから相手にされていない。まるで胡散臭い人物と見られている。
 洋品店は、矢野らのペテン行為によって、数件の民事訴訟に巻き込まれ、多額の弁護士費用を支払い、多くの時間と労力をとられてきた。わずか1900円の万引き行為を正当に問題化しただけで、多くの苦労を味あわされた。公人であった加害者らは罪を逃れるためにさらに悪あがきし、被害者に対してさまざまな「弾圧」を加えた。こうした反動的行動は、いまも“ならず者”たちの手によって繰り返されている。民主主義社会のはずの日本国で、こんな理不尽なことがまかり通っていいのだろうか。
 弱者であり、被害者であるはずの「一般市民」をいまだ踏みつけにしようとする“ならず者”たち。それらはいまも公職の人間であり、さらには集団でしか行動できない典型的な「臆病者」たちである。こんな行動にまともな≪人間としての価値≫があるなどと口が裂けても主張できるだろうか。
 日本を愛する日本国民にまじめに考えていただきたい問題である。もちろん外国籍住民も歓迎だ。日本社会には、「ダニ」のような人間が存在するということを――。

カテゴリー:コラム, 矢野穂積

「草の根」には“お似合い”のパートナー  ウンコに脅える右翼

2008年11月26日 コメントは受け付けていません

 仲間の自宅のベランダに正体不明のうんこが置かれていたと主張して警察まで駆り出して大騒ぎした≪うんこに脅える右翼≫が、東村山問題をウォッチしているジャーナリストらに「詐称ジャーナリスト」と書かれて憤慨したのか、刑事告訴するなどと息巻いている。当方の手元にある辞書を開いてみると、「詐称」とは「氏名、職業、住所、年齢などをいつわって称すること」とある。この男は自分はれっきとしたジャーナリストであり、「詐称ジャーナリスト」という言葉は名誉棄損罪に当たると主張したいらしい。
 もともとジャーナリストなど、最初からピンキリの世界ではある。名刺一枚刷ればその日からジャーナリストであり、たとえ名誉棄損裁判で何度敗訴しようとも、乙骨某のようにこの肩書きをずっと使用することも許される。その意味では、医者や弁護士などと違って、極めていい加減な肩書きともいえよう。もしジャーナリストが免許制や資格制であったらどうなるか。もっともそんな国はほとんど聞いたことはないが、名誉棄損裁判で3回以上敗訴するとその資格を失うなどと規定されていたとしたら、乙骨某はとっくにその資格を奪われていることになる。その場合はれっきとした「詐称」に当たろうが、そんな厳密な区別がない以上、この用語の使途もグレー・ゾーンの領域にすぎない。
 上記のように、日本の場合は特に、ジャーナリストという肩書きはかなりファジーな意味合いをもつ。事実を重んじる姿勢がジャーナリストの基本条件であるとすれば、瀬戸某などは「詐称」も「詐称」、かなりハイレベルの「詐称」と当方は認定しておく。要するに、右であろうと左であろうとその立場を問わず、ジャーナリストは常に「事実」に立脚して記事を書くべきであり、取材も十分に行わずに、憶測や推測あるいは伝聞などを主体に記事を作成すべきでない。そうした点がおろそかであれば、その点だけをもってしても「詐称ジャーナリスト」と批判されることは、十分に真実性を伴っており、不法行為としての名誉棄損には該当しないはずだ。ただし、この男の場合、より正確には、「僭称」(=勝手に自分の身分を越えた上の称号を名乗ること)と呼ぶほうがよりふさわしいように思える。いずれにせよ、同人が「まともに取材しないジャーナリスト」である事実は疑いようがなく、そのことはすでに多くの人々から指摘されているところだ。こうした点だけをとらえても、「僭称」「詐称」の類いと批判されて仕方あるまい。
 さらに同人らの発売するDVDでは乙骨某の名を「正夫」と≪誤記≫したままのようだ。“講師センセ”に失礼で、「事実」を重んじない体質がよく出ている。「詐称ジャーナリスト」と呼ばれる所以であろう。

カテゴリー:コラム, 瀬戸弘幸, 乙骨

もはや「藁」を掴むしかなくなった“落ち目”「矢野穂積」

2008年11月25日 コメントは受け付けていません

 東村山市議会議員の「矢野穂積」は議席欲しさのあまり、95年の市議会選挙で次点で落選しながらも、当選者の朝木直子が選挙直後に辞退することで「念願の議席」を手に入れた。欲しいもののためには手段を選ばないといった露骨な態度は、民主主義社会のわが国ではとうてい受け入れられず、市民らによって議席無効を訴える裁判が起こされ、矢野は最高裁で“敗訴確定”し、その後議員資格を失った。東村山の一連の問題は、すべてはこの男の「この行為」から始まったといってよい。
 矢野が陰で操ってきた同僚議員「朝木明代」の市内での万引き事件が発覚したのは、それから間もない同年6月のことである。一般に万引き行為はお金のない人が買うものに困ってする行為ととらえる人が多いようだが、常習犯と呼ばれる人々はたとえお金があってもそうした行為を繰り返す。先日、ロスで死亡した三浦和義などもまったく同様だ。朝木は万引き発覚からさらに3カ月後、市内のビルから転落して死亡した。
 いまから振り返れば、すべては矢野穂積がなりふり構わず、市民の代表職である「議席」を“捕食”した結果であった。サイコパス的人物は、自分の欲しいものを好きなように手に入れるところに一つの特徴がある。異性、カネなどもその対象になるが、矢野の場合、このときの対象は「議席」であった。
 朝木明代の転落死事件では、自身が「真相」をいちばん知っている立場にも関わらず、なんの罪もない特定教団に“責任転嫁”することで、自らの責任を回避しようとした。自分の身を守るためなら、どんな嘘でも平気でつけるし、それを延々と繰り返すことさえ朝飯前の行為にすぎない。
 そんな矢野の習性に胡散臭さを感じた人々はその後、意外に多かったようだ。昨今、同人の政治的言動をウォッチする人たちが増えたのはその結果といってよい。現在、「正体」がばれてしまったことで≪窮地≫に陥りつつある矢野ら「草の根」を支援するのは、一部の“情けない右翼”くらいでしかなくなった。あるいは、ガセネタを性懲りもなく繰り返して裁判で敗訴を続ける「報道失格者」くらいなものだ。
 転落死事件の当初は、多くのマスコミを操作し、自分の都合のいいように操ることもできたが、結局、こんな人間だけに、最後は「藁」をつかむしかなくなった。実はその藁も、“ウンコまみれ”というオチまで付いている。2011年の東村山市議会選挙における「落選運動」が、今から楽しみな一人である。

カテゴリー:コラム, 矢野穂積

矢野絢也の「悪相」

2008年11月24日 コメントは受け付けていません

 元公明党委員長の矢野絢也が「WiLL」や「SAPIO」といった雑誌に顔写真つきで登場していた。2年前、同人が東京地裁に出廷した際に目にした表情とはまるで違っている。一気に「悪相」に変じたという印象である。
 矢野絢也といっても、いまの若い人はだれもその名を知らない。10代20代はいうに及ばず、30代はじめでも、知らない人が多い。矢野が議員引退した93年はいまから15年前のことであり、同人が委員長時代に不祥事を起こしたのもすでに20年前のことなので、そのころ生まれたか幼少期にあたる年代が知らないのも無理はない。その意味では、矢野絢也はすでに≪過去の遺物≫にすぎない。
 それでも同人には公明党草創期からの「功労者」との“奇妙な自負”があるらしく、そのことを公言したりもしている。だが、同人の半生を知っている世代からすれば、この男ほど党員・支持者に迷惑をかけ続けた公明党委員長はほかに存在しない。自らの金銭不祥事、さらにはそのことへの謝罪も反省も、党員・支持者に対していまに至るまでなされていない。上記のような青年たちにこの男のことを説明するとき、小生はミイラ取りがミイラになった男と端的に解説する。金銭腐敗の国会に政界浄化のために乗り込んだ男が、結局、金まみれになってみじめな姿で帰ってきた、といった意味である。さらにその情けない「現実」を隠すために、反逆し、自己正当化を繰り返しているにすぎないと。
 同人が最近出した文庫版の著書に、「国会手帳にメモしていたことのほとんどはこの本に書いている」旨のことが記されていた。その問題となっている国会手帳を、矢野は自ら念書(法的拘束力をもつ文書)を作成して、自身の言動に自信がもてないからとかつての議員仲間に自発的に託していた。その後矢野は「手帳を強奪された」などと≪虚偽≫を構えて裁判を起こしたが、すでに自著にほとんど書いていたのなら、いまさら虚偽を重ねて返してもらう必要もないのではないかと素朴な疑問もわく。
 私の知る大手マスコミの記者たちも、「どの組織・団体にも自己都合で“反逆”する人間は存在する。自分の立場によって、手の平を変えるように言うことが変わる人間はまったく信用できない」と見抜いている。嘘に嘘を重ねてまで悪態をつく晩年は、哀れだ。それが端的に顔に出ているのが、矢野絢也のいまの姿といってよい。

カテゴリー:コラム, 矢野絢也

祈りの時間

2008年11月23日 コメントは受け付けていません

 創価学会員とそれ以外の人々の主な違いは、一つには朝晩に祈りの時間が確保されているかどうかということであろう。もちろん、そんな行(ぎょう)すら行わない「ペーパー学会員」も存在するかもしれない。小生はわりかし長時間祈るほうだ。その意味では婦人部タイプの祈りといわれることがある(部外者には意味不明で申し訳ありません)。祈りについて、婦人は「量」、壮年・男子は「質」(=時間は短いが集中力で勝負するといった程度の意味)などと解説する人もいる。たとえば1日3時間もそうした時間に費やすことは、信仰をもたない人から見ればとうてい「無駄な時間」にしか見えないにちがいない。一年ベースで換算すれば、丸45日間もそうした行動に時間を費やしている計算になる。それでも当人にとっては、それこそがかけがえのない“活力の源泉”であったり、不可欠の時間であったりする。だからこればかりは、「実践」を抜きに等身大での理解は難しいといえるかもしれない。そんな生活を続けて数年が経過した。サイコパスとか悪鬼・魔民と呼ぶのがふさわしい人々と関わっていると、それなりの内的エネルギーを消耗してしまうということではないかと勝手に解釈している。
 たまにはそんなことも書いてみろという人がいたので記してみた。

カテゴリー:コラム