ホーム > コラム, 矢野絢也 > なぜ「矢野絢也」は叩かれたのか?

なぜ「矢野絢也」は叩かれたのか?

2008年10月10日

 以下に記すことはまったくの私見であるので、その前提で読んでいただきたい。元公明党委員長の矢野絢也が最近もさまざまなメディアで言いたい放題のことを書いているので簡単にまとめてみた。
 矢野絢也は1932(昭和7)年生まれ。1953(昭和28)年9月、21歳のときに創価学会に入会した。京都大学経済学部に在籍しており、当時、大学出の学会員は珍しかった。卒業後の1956(昭和31)年には大林組に入社し、会内的には伝説ともなっている「大阪の戦い」(=創価学会が初めて国政選挙で支援活動を行い、若き日の池田名誉会長が陣頭指揮をとって大勝利した戦い)に参加している。大阪府議に立候補したのは、1963(昭和38)年、31歳のときだった。さらに1967(昭和42)年に衆院に鞍替えし、公明党の書記長となった。以来、86年に第4代の党委員長に就任するまでの約20年間、党書記長として動いたことになる。党委員長時代は短かった。3年にも満たず、党内の数々の問題から辞任。1993(平成)年に矢野が議員引退したあと、公明党は入れ替わるように与党に入った。
 矢野絢也の歩んだ軌跡は、そのまま公明党の立党以来の軌跡をたどっている。矢野は衆院議員になった最初の国会質問で、それまで「政界タブー」とされてきた与野党の国会対策費問題を追及。公明党の立党の理念をまざまざと見せつけた。だが、本当の意味での活躍はそのくらいまでで、70(昭和45)年の言論問題、政教分離あたりから金銭感覚がおかしくなり始め、最後は自らの明電工疑惑とともに、党内のさまざまな金銭スキャンダルで“火だるま”となり、政界を去っていった。
 本来、公明党の結党の理念にのっとれば、現役政治家時代の不始末をかつての支持者らに率直に詫び、懺悔の行動をとるべきであったろう。だが、すでに矢野の内実はそうした姿とはかけ離れていた。政党のトップをつとめた人間が、お手軽な「政治評論家」きどりでメディアに露出するようになり、しかも醜悪な面相を見せられた過去の支持者たちは気まずい思いをするばかりであった。
 要するに、自分のことしか考えていない姿があまりにも明白だったわけである。
 一方で、地元の公明党支持者が選挙のためのポスターを貼らせてもらおうと自宅に頼みに訪れても、のらりくらりと応じない。同党OBとして、選挙の応援のために行動することもほぼ皆無で、公明党にとっては「模範」にはほど遠い議員OBの一人になりさがっていた。とはいえ、矢野は、公明党の草創期から最高幹部をつとめてきた人間である。議員時代だけ支持者らにぺこぺこしていながら、引退すると手のひらを返したように侮蔑するような行動をとり始める。さらに“守銭奴”として「裏金」などを多くためこみ、株投資で庶民とはほど遠い利益を得て、いまも「矢野御殿」でのうのうと暮らしている。
 そんな姿を放置したまま見過ごすことは、創価学会・公明党の≪将来≫にとって、絶対にできないことだったにちがいない。なぜならこんなことを許していては、今後も似たような行動をとる者が必ず出てくることは明白だったからだ。議員を辞めても、党のために何らの貢献もせず、自己利益の行動だけを重ねて、支持者を裏切っていく。こんな人間が党内で増えていけば、公明党はもはや「解党」するしかなくなるからだ。要するに矢野絢也の存在は、増殖させてはならない「がん細胞」にすぎなかった。
 そのため2005年になって、「きちんと党活動をするように」「評論家などやっている場合ではない」といった支援団体からの“直接指導”が入るようになった。だが、本人には立党時代の奉仕の精神はとうの昔に失われており、逆に“反発”したというのが、今回の大まかな状況である。
 結局は何と弁解しようが、党に求められてきた清潔な理念とほど遠い存在となっているのが、いまの「矢野絢也」の姿だ。逆に支援団体を≪攻撃≫してみせることで、自己正当化に躍起になっているにすぎない。それでも、同人が“転落した人生”を歩んでいることは、すでに動かしようのない事実である。
 志を失った老いぼれは表舞台から消え去れ!!――。かつての支持者に共通した心情であろう。

広告
カテゴリー:コラム, 矢野絢也
%d人のブロガーが「いいね」をつけました。